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兼山城 の変更点

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「攻めの三左」森可成や「鬼武蔵」森長可ら、森氏が居城としたことで知られる、美濃の代表的な織豊系城郭。
天文6年(1537年)に斎藤道三の命で斎藤正義(妙春)が烏峰城として築いたのが始まりで、烏峰城の南側に位置する久々利城を本拠とする久々利氏の土岐悪五郎によって妙春が謀殺されたのち、長井道利が城主となった。
尾張の織田信長が永禄6年(1563年)に[[清洲城]]から[[小牧山城]]に居城を移して美濃侵攻を本格化させると、翌年に烏峰城は攻略された。
信長は中濃を平定したのち、烏峰城を家臣の森可成に与え、この時可成は烏峰城を金山城に改称したという。
金山城は北側を流れる木曽川に兼山湊が置かれ、南側を東西に中山道が通るという商業・交通の要衝であったため、森氏は金山城を本拠として東美濃を統治した。

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元亀元年(1570年)、可成は[[宇佐山城]]の戦いで討死し、長男の可隆がすでに天筒山城の戦いで討死していたため、次男の長可が城主となった。
長可は天正10年(1582年)の甲州征伐の功によって信濃川中島四郡を与えられ[[海津城]]に移ったため、『信長公記』『兼山記』によれば、可成の三男で森蘭丸として知られる成利が美濃5万石と金山城を与えられた。ただし、『遠山来由記』『巌邑府誌』では金山城を与えられたのは団忠正で、成利が与えられたのは[[岩村城]]としている。
いずれにせよ1万石を超える領地を持つ城持ち大名に昇格した成利も同年の本能寺の変で討死し、空白地帯となった信濃では天正壬午の乱が起こったため長可は海津城から撤退して金山城に帰還し、東美濃の統一を進めた。
いずれにせよ城持ち大名に昇格した成利も同年の本能寺の変で討死し、空白地帯となった信濃では天正壬午の乱が起こったため長可は海津城から撤退して金山城に帰還し、東美濃の統一を進めた。
天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いで長可が討死すると、可成の六男・長重(のちの忠政)が城主となるが、忠政は慶長5年(1600年)に信濃川中島に転封となり、兄長可も居城としていた海津城に入った。
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金山城は[[犬山城]]主の石川貞清が城主を兼任し、元禄年間に津田房勝が記した『正事記』などによると、金山城の建物は解体され資材は犬山城の改修に転用されたという「金山越」の伝承がある。
その後、慶長6年(1601年)に犬山城主の小笠原吉次によって金山城は破却され廃城になったとされる。
金山の地名は明暦2年〈1656年〉に兼山と改称され、このことから金山城は兼山城とも称される。
兼山城の跡地は幕府の代官支配を経て元和元年(1615年)に尾張藩領となり、城跡一帯は留山となった。
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兼山城は木曽川中流域の左岸、標高276メートルの古城山に築かれ、主郭が設けられた山頂部から東・南・西に続く尾根筋に階段状に曲輪群が配置され、北側は断崖に守られていた。
主郭には全周囲に野面積みの石垣が築かれ、一部には登城路からの視覚効果を意識して三段の石垣が構えられ、見せる城としての要素もあった。
各曲輪には一部に石垣が認められるのみだが、織豊時代に特徴的な建物礎石や瓦、枡形虎口があり、織豊系城郭の特徴をよく表している。
また兼山城は一国一城令以前の破城の例としても貴重であり、破城後にほとんど改変がない状態で織豊系城郭の遺構が約400年間保たれていることから、平成25年(2013年)に「美濃金山城跡」として国の史跡に指定され、平成29年(2017年)には「美濃金山城」として[[続日本100名城>日本100名城#o6df7c09]]に選定された。

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|所在地|岐阜県可児市兼山|
|現存状態|移築門、石垣、土塁、堀など|
|城郭構造|梯郭式山城|
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