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佐伯城 の変更点

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毛利高政によって築かれた、佐伯藩毛利氏代々の居城。豊後の佐伯地方は平安時代から佐伯氏が支配し、戦国時代には栂牟礼城を居城としていたが、文禄2年(1593年)に主家である大友氏の改易に伴って佐伯氏も所領を失った。
慶長6年(1601年)、関ヶ原の戦いでの功で佐伯2万石を与えられ、栂牟礼城に入ったのが毛利高政だった。高政は織田信長・羽柴秀吉の家臣だった森高次の子で、本姓は「森」となる。
秀吉の中国攻めに従軍した高政は本能寺の変後に毛利氏に人質として送られた。この時毛利輝元に気に入られて義兄弟の契りを結んだとされ、輝元の申し出で「毛利」に改姓したという。
栂牟礼城に入った高政だったが、栂牟礼城は戦国時代の古い山城だったため慶長7年(1602年)に廃城とし、新たに佐伯城の築城を開始した。
佐伯城は慶長11年(1606年)に完成し、佐伯藩の藩庁となった。また佐伯城の築城と前後して周囲に城下町を建設されている。

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佐伯城は番匠川の河口部北岸にある標高144メートルの八幡山に築かれ、尾根伝いに広がる城域が鶴が翼を広げたような形をしていることから「鶴屋城」「鶴ヶ城」などの異名を持つ。
縄張を担当した市田祐定は[[安土城]]の築城にも参加しており、山頂部に置かれた佐伯城の本丸には安土城にも見られる巨大な天守曲輪が築かれた。また石垣の普請は天正期[[姫路城]]の石垣施工を指揮した石垣師の羽山勘左衛門が務め、佐伯城は山城でありながら総石垣の近世城郭としての特徴を持っている。
築城当初の佐伯城は本丸に天守として三重櫓を築き、さらに二重櫓が5基、平櫓が1基、城門が7棟築かれ、本丸とその南西に位置する二の丸との間は堀切で遮断されて廊下橋が架けられていた。
二の丸からさらに西南には西出丸が張り出しており、二の丸とは急勾配の石畳が敷かれた虎口で仕切られ、西出丸の突端にも二重櫓が築かれた。
本丸の北には北出丸が張り出し、本丸との間には食い違いの虎口が設けられ、こちらも突端に二重櫓があった。本丸の東斜面には予備の曲輪である捨曲輪が置かれ、籠城戦に備えた構えとなっている。
また北西の斜面には谷を堰き止めて造られた雄池・雌池と呼ばれる貯水池があり、周囲は石垣で囲まれていた。
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このように実戦を想定して築かれた佐伯城だったが、平時に政務を執るのは不向きであり、元和3年(1617年)に二の丸からの出火で焼失した天守などの主要な建物は再建されず、寛永14年(1637年)に3代藩主高尚は八幡山の南東に三の丸を増築し、藩主の居館など主要施設が三の丸に移された。
この時に築かれた三の丸櫓門は「黒門」と呼ばれ、享保11年(1726年)に再建され、天保3年(1832年)に改築され現在に至っている。
その後も焼失した山上の建物は放置され、本丸・二の丸は荒廃する一方だったが、宝永6年(1709年)に6代藩主高慶が20年がかりで山頂部の城の大改修を行い、天守を除く本丸の建物が再建・修復された。天守曲輪の石垣もこの時に築かれ、慶長年間によく見られた算木積みではなく、隅角部を丸く積み上げた部分もある。
この二度の大改修を経て、佐伯城は佐伯藩毛利氏の下で明治維新を迎えた。平成29年(2017年)には[[続日本100名城>日本100名城#o6df7c09]]に選定されている。
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なお、佐伯城下は昭和62年に日本の道100選に選定されている。

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|所在地|大分県佐伯市|
|現存状態|櫓門、石垣など|
|城郭構造|連郭式山城|

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