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但馬八木城 の変更点

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「山名四天王」の一家として数えられる但馬の有力国人、八木氏の居城。
八木氏は孝徳天皇の皇子とされる表米親王を祖とし、奈良時代から但馬で郡司として勢力を持った日下部氏一族の子孫であり、源頼朝に仕えた朝倉高清の子八木康高に始まる。
八木城が築城された時期は不明だが、延文元年(1356年)に八代城、宿南城、大坪城、土田富栖城など八木城付近の城名が見られることから、八木城も南北朝時代に築かれていたと思われる。
文明16年(1484年)、八木宗頼は山名宗全の子政豊に従って赤松政則や浦上則宗らを攻めて播磨・備前・美作を占領した。この活躍により八木氏は宗頼・貞直・直信・豊信と続けて山名家中で重きをなし、垣屋氏・太田垣氏・田結庄氏とともに「山名四天王」に数えられた。
豊信の代の天正3年(1575年)、但馬は織田氏と毛利氏の両勢力の境目となり、安芸の毛利輝元と但馬の山名祐豊による芸但和睦が成立すると、豊信は毛利氏の吉川元春に協力して但馬の情勢を元春に報告し、また但馬への出兵を要請している。

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天正5年(1577年)、羽柴秀吉による第一次但馬攻めで八木城は落城し豊信は降伏した。しかし翌年に[[上月城]]の戦いが始まると但馬の毛利勢が蜂起し、豊信は再び毛利方についた。天正7年(1579年)には、元春は八木城に吉川の番衆を送り込んで警護したい旨を、同じく毛利方についていた垣屋豊続に伝えている。
天正8年(1580年)、秀吉は弟の秀長に但馬攻めを命じ、但馬が制圧されると豊信は秀吉の配下となった。同年に秀吉による[[鳥取城]]攻めが始まると豊信は因幡の[[若桜鬼ヶ城]]に移されている。
その後天正13年(1585年)までの城主は不明だが、[[有子山城]]主となっていた秀長が管理していたと考えられる。この天正13年に秀吉は[[三木城]]主別所長治の叔父にあたる重棟を八木城主とし、重棟は織豊系城郭としての八木城の改修を進めた。
天正19年(1591年)には重棟の子吉治が家督と城主の地位を継いだが、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは西軍として参加し東軍の丹後田辺城を攻撃したため、吉治は戦後丹波由良に移され八木城は廃城となった。
天正19年(1591年)には重棟の子吉治が家督と城主の地位を継いだが、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは西軍として参加し東軍の[[丹後田辺城]]を攻撃したため、吉治は戦後丹波由良に移され八木城は廃城となった。
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八木城は但馬と因幡の国境となる氷ノ山から派生した標高330メートルの尾根上に築かれ、頂部の本丸を中心に東尾根に七段、南尾根に六段、北尾根に三段の曲輪が放射状に置かれ、西側は堀切で遮断された。
本丸では街道に面する南側を中心に石垣が築かれ、特に南西部では高さ8.6メートルの石垣が約60メートルにわたって続き、その北側にも高さ2.5メートル前後の石垣が約50メートルにわたって続くが、その先は土造りとなっている。
このうち高い方の石垣には櫓台石垣・石塁・虎口などがあり、石材を割り出す矢穴が多数見られる、長方形の石材を長短交互に組み合わせた完成度の高い算木積みの石垣であり、慶長初期に築かれたとされる。
一方で低い方の石垣は矢穴がごく少ない、隅角部が鎬積みの石垣であり、文禄期に築かれたと考えられることから、八木城の石垣は別所吉治が二期にわたって築いたと思われる。
また八木城には後方に伸びる尾根筋に八木土城と呼ばれる土の城が存在する。この2つの城は一連の尾根に築かれた城で、それぞれ本丸や主郭を持つ独立した山城であり、別所氏時代の八木城は土城を詰城として利用していた。
また八木城には後方に伸びる尾根筋に[[八木土城]]と呼ばれる土の城が存在する。この2つの城は一連の尾根に築かれた城で、それぞれ本丸や主郭を持つ独立した山城であり、別所氏時代の八木城は土城を詰城として利用していた。
あるいは八木氏時代には八木城と土城は一連の城郭であり土城が中心部だったが、別所重棟が八木城に石垣を築いて別々の2城として整備したという考え方もある。
八木城の麓には現在は殿屋敷遺跡となっている八木氏館があり、12世紀前半に地頭館として築かれ、その後城主館となって堀がめぐらされ16世紀半ばまで使用された。但馬では城主館の周囲に堀をめぐらせる例は少なく、守護館に類似した構造として注目されている。
このように八木城は鎌倉時代の館、室町時代の土城、織豊時代の石垣造りの城が残っていることが評価され、平成9年(1997年)に国の史跡に指定された。

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|所在地|兵庫県養父市八鹿町八木|
|現存状態|土塁、堀切、石垣など|
|城郭構造|連郭式山城|

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