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九戸城 の変更点

*現実の城情報 [#information]

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三戸南部氏や八戸南部氏と並ぶ、甲斐源氏の流れをくむ南部氏の有力な一族で、代々南部宗家を支えてきた九戸氏の居城。
明応年間の1500年頃に九戸光政が築いたとも、永禄11年(1568年)に九戸政実が築いたともされるが、詳細は不明。
西を馬淵川、北を白鳥川、東を猫渕川に囲まれ、南は沼沢地を広大な外堀とする天然の要害で、二段の河岸段丘上に多数の独立性の高い曲輪を配した、[[根城]]などの南部氏系の城に共通した中世城郭的な縄張で築かれた。
九戸氏は政実の代に南部晴政の要請で安東愛季から鹿角郡を奪還し、葛西氏の勢力下にあった金ケ崎まで攻め込むなど、南部氏のなかでも三戸南部氏・八戸南部氏に匹敵する大勢力を築き上げた。
築城時期は明らかでなく、安倍頼時の子則任が居城とした白鳥城が元だとする説もあるが根拠は無い。「参考諸家系図」や実相寺の由緒書きでの記述から明応年間の1500年頃に九戸光政が築いたとも、『南部根元記』や『奥南旧指録』の記述から永禄11年(1568年)に九戸政実が築いたともされるが、詳細は不明。
天文年間(1532~1555年)以降に九戸氏は勢力を拡大し、永禄6年(1563年)の『諸役人付』に「南部大膳亮(南部晴政)」とともに「九戸五郎(九戸政実)」の名があり、晴政の三戸南部氏と政実の九戸氏がそれぞれ独立勢力として扱われていたことがわかる。
九戸氏はこの政実の代に晴政の要請で安東愛季から鹿角郡を奪還し、葛西氏の勢力下にあった金ケ崎まで攻め込むなど、南部氏のなかでも三戸南部氏・八戸南部氏に匹敵する大勢力を築き上げた。

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一般に小田原攻めにより[[小田原城]]が開城したことで戦国時代は終結したと言われるが、九戸政実は豊臣秀吉の奥州仕置後もこの城に籠城し、秀吉が派遣した奥州再仕置軍の攻撃に頑強に抵抗している。
九戸政実の乱の終結後、九戸氏の旧領は南部宗家の当主・信直に所領として与えられるとともに、九戸城は蒲生氏郷や浅野長吉らによって上方風の近世城郭に改築された。
天正19年(1591年)9月4日に九戸政実の乱が終結すると、九戸氏の旧領は南部宗家の当主・信直に所領として与えられるとともに、九戸城は蒲生氏郷や浅野長吉らによって上方風の近世城郭に改築された。
この改築は九戸城が落城した直後に始められ、同年9月10日付けの長吉宛の氏郷の書状に「五六日中に出来候」とあることから、9月半ばには完成したと考えられる。また同年9月13日付けの浅野幸長宛ての書状には「南部方居城」と記され、当初から南部氏の居城として改築が行われたとされる。
このとき九戸城は福岡城と名を改められたが、領民は九戸城と呼び続け、現在でも九戸城と呼ぶのが一般的である。
この改築の際に穴太衆によって築かれた石垣は東北地方の城では最古の石垣として知られる。
また改築前の九戸城が各曲輪が独立した構造だったのに対し、改築後は本丸を中心に据えて二の丸をL字型に配し、曲輪に主従関係がはっきりと見られるようになった。
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信直は九戸城を福岡城と改称し、慶長2年(1597年)に[[盛岡城]]を普請するまで福岡城を本拠として使用した。
盛岡城の普請中も信直は度々福岡城に居住し、九戸城改築の際に改修された松の丸で没した。その後、寛永13年(1636年)に九戸城は廃城となった。
盛岡城の普請中も信直は度々福岡城に居住し、九戸城改築の際に改修された松の丸で没した。その後、南部利直の長子経直が城主となるが急死し、城代が置かれたものの寛永13年(1636年)に九戸城は廃城となった。
『南部史要』によると廃城に伴って城内の建築物は取り壊され、盛岡城新丸御殿の資材として利用されたという。
城跡は昭和10年(1935年)に国の史跡に指定され、平成29年(2017年)4月6日には[[続日本100名城>日本100名城#o6df7c09]]に選定された。
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歌曲「荒城の月」の作詞者・土井晩翠が当地にリンゴ狩りに訪れた際、自ら筆を執り記した「荒城の月」の歌碑が建立されている。
歌曲「荒城の月」の作詞者・土井晩翠が当地にリンゴ狩りに訪れた際、自ら筆を執り記した「荒城の月」の歌碑が二の丸の搦手に建立されている。

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|所在地|岩手県二戸市福岡城ノ内|
|現存状態|空堀、石垣、土塁など|
|城郭構造|梯郭式平山城|

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**豊臣秀吉に最後まで抗った城 [#v2892dd1]

九戸氏の最後の当主である政実は、豊臣秀吉の奥州支配に最後まで抗った大名として一部で有名である。
南部氏には当初宗家の立場にあったとされる八戸南部氏や、戦国時代に台頭した[[三戸南部氏>三戸城]]、そして九戸氏など有力な一族が分立し、主従関係が曖昧なままだった。
天正10年(1582年)、南部氏では当主の南部晴政とその嫡男晴継が相次いで死去したことによる宗家の跡継ぎ問題を発端とし、晴政の養子となっていた三戸南部の信直と九戸南部の政実が対立した。
さらに天正18年(1590年)の豊臣秀吉による奥州仕置で、三戸南部氏を宗家に有力一族が家臣として仕えることが取り決められた。
この時八戸南部氏や九戸南部氏は独立が認められることもあり得たが、八戸南部氏の政栄は南部氏の分裂を阻止するため、三戸南部氏に仕える道を選んだ。
一方で信直の宗家相続を不服とした政実は天正19年(1591年)に挙兵、信直はこれを独力で鎮圧することができず秀吉に救援を要請し、信直が結んだ豊臣氏と対抗する形になった九戸政実は、5000人の兵をもって九戸城に籠城した。
一方で信直の宗家相続を不服とした政実は天正19年(1591年)3月に挙兵、信直はこれを独力で鎮圧することができず前田利家を通じて秀吉に救援を要請し、信直が結んだ豊臣氏と対抗する形になった九戸政実は、5000人の兵をもって九戸城に籠城した。
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九戸城は豊臣秀吉が派遣した6万の奥州再仕置軍に包囲されたが、南部氏のなかでも精鋭の九戸党を率いる政実指揮の下、天然の要害である九戸城は容易には落ちなかった。
そこで再仕置軍は和睦を持ちかけ、政実は家臣や婦女子の助命を条件に開城した……、はずだったがこれは豊臣方の罠であり、女子を含め九戸一族は根絶やしにされたと伝わる。(実際、首を刎ねられた男女の人骨が出土している。) 
9月1日に九戸城は豊臣秀吉が派遣した6万の奥州再仕置軍に包囲されたが、南部氏のなかでも精鋭の九戸党を率いる政実指揮の下、天然の要害である九戸城は容易には落ちなかった。
そこで再仕置軍は和睦を持ちかけ、9月4日になって政実は家臣や婦女子の助命を条件に開城した……、はずだったがこれは豊臣方の罠であり、政実以下の主だった武将は栗原郡の三迫で処刑され、他の籠城者は女子を含め二の丸に閉じ込められて殺戮され、九戸一族は根絶やしにされたと伝わる。
平成7年(1995年)の二の丸大手付近の調査で刀傷痕があったり首を刎ねられたりした男女の人骨が出土しており、その損傷の程度から撫で切りが実際に行われたと推定されている。 
これが世にいう九戸政実の乱であり、乱の終結をもって秀吉による天下統一は完成することとなった。

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**城郭構造 [#w712d473]
九戸城は青森県と岩手県の県境に近い二戸盆地を北流する馬淵川の右岸に位置し、西を馬淵川、北を白鳥川、東を猫渕川に囲まれ、南は沼沢地を広大な外堀とする天然の要害で、二段の河岸段丘上に多数の独立性の高い曲輪を配した、[[根城]]などの南部氏系の城に共通した中世城郭的な縄張で築かれた。
本丸を囲むように二の丸が置かれ、その東側に若狭舘と石沢舘が配され、深田堀を挟んで二の丸の南側に松の丸と在府小路が、本丸の西側には三の丸があった。
当初の九戸城の城域は白鳥川に沿って東西に並ぶ本丸、二の丸、若狭舘、石沢舘の範囲とされ、「親類」や「内衆」などの家格によって独自の家中を形成した九戸氏の勢力拡大に伴って城郭も拡張していったと考えられる。
本丸と二の丸は氏郷によって大幅に改築されたため九戸氏時代の様相は不明だが、『浅野家文書』に「又外丸は其ままにて」という記述があることから、若狭舘と石沢舘は九戸氏時代の姿を残していると考えられる。
実際、土塁や石垣、直線的な堀を持つ本丸や松の丸と異なり、若狭舘と石沢舘は土塁を持たない南部氏の城館によく見られる曲線的な曲輪の形状となっている。
また二の丸と松の丸、在府小路を隔てる深田堀も九戸氏時代の遺構で、その幅は約50メートルと城内でも最大規模の堀となっている。各曲輪を囲む堀は堀底道となっており、若狭舘との間を通り抜けると九戸氏の本拠地である九戸方面に至り、九戸氏時代から主要な道筋だったとされる。
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氏郷による改築箇所は本丸と二の丸の一部で、松の丸もこの時に増築され、在府小路は武家屋敷として整備された。
二の丸大手と在府小路は土橋でつながっていたが現在は失われており、本丸から二の丸へは2つの虎口が開かれている。このうち南の虎口は名称が残っていないが、東の虎口は追手門の地名が残り、木橋が架かっていたことが判明している。
また改築前の九戸城が各曲輪が独立した構造だったのに対し、改築後は本丸を中心に据えて二の丸をL字型に配し、曲輪に主従関係がはっきりと見られるようになった。

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