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下津井城 の変更点

*現実の城情報 [#information]

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瀬戸内海における海上交通の要所である下津井港を押さえる、総石垣造りの近世城郭。
戦国時代末期、備前を支配した宇喜多氏にとって領国支配の拠点は[[岡山城]]だったが、瀬戸内水運を押さえるために外港として下津井を確保する必要があり、下津井城は重要な支城として位置づけられた。
下津井城を築城、あるいは改修したのは宇喜多秀家で、文禄年間(1592~1596年)のこととされる。関ヶ原の戦い後に岡山城主となった小早川秀秋も下津井城を重視し、重臣の平岡頼勝を入れた。
秀秋の急死により小早川氏が断絶すると、[[姫路藩>姫路城]]主池田輝政の次男忠継が岡山藩主となり、輝政の弟で[[赤穂城]]代だった長政が3万2000石で下津井城に入った。
長政は慶長8~12年(1603~1607年)にかけて大改修を行い、下津井城は大規模な曲輪や高石垣を備え、天守をはじめ瓦葺建物が林立する近世城郭へと生まれ変わった。

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長政の死後は輝政の甥である由之が城代となり、慶長18年(1613年)に由之が[[明石城]]に移ると、忠継の重臣である荒尾成房・成利が入った。
寛永9年(1632年)に池田光政が岡山藩主となると、これに伴い由之の子で[[米子城]]代だった由成が下津井城代となった。
寛永16年(1639年)、一国一城令によって下津井城は廃城となり、この時に行われた破城では高石垣の隅角が集中して崩されたことが遺構からうかがえる。
由成は下津井城から約17キロメートル北の天城に陣屋を構え、その後由成の家系は明治維新に至るまで岡山藩の家老として天城陣屋を預かった。
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下津井城は瀬戸内海に沿って東西に伸びる標高89メートルの丘陵上に立地し、小丘頂を活用した総石垣造りの曲輪が尾根筋に約600メートルにわたって並んでいる。
最高所に置かれた本丸は不等辺五角形で、北隅に天守があった。本丸の南の帯曲輪が二の丸で、その西端には折れの多い複雑な枡形を持った大手門設けられた。
本丸の東に尾根に沿って張り出した曲輪が三の丸であり、これらが城の主要部を構成し、その西側には南西隅に櫓台を持つ西出丸が土橋でつながれ、東側は堀切を挟んで中の丸が置かれ、最東端には東出丸があった。

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|所在地|岡山県倉敷市下津井|
|現存状態|石垣、土塁など|
|城郭構造|連郭式平山城|

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