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上月城 の変更点

*現実の城情報 [#information]

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上月城(こうづきじょう)は尼子再興軍終焉の城として知られる山城である。
山頂部の主郭の周りに曲輪が配され、尾根筋には平場を区切る堀切や竪堀が見られるなど、典型的な中世山城のたたずまいが見られる。
播磨赤松氏の一族とされる上月景盛が1336(延元元)年に築いたとされ、上月氏の居城となった。
当時赤松氏は足利尊氏に属しており、備前・美作との国境に近い上月城は西の守りを担う城としての位置づけがあったものと考えられる。
1441(嘉吉元)年に赤松満祐が将軍足利義教を殺害する嘉吉の乱が起こると、上月城も幕府の追討軍の攻撃を受け落城、上月氏嫡流は滅亡した。

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その後播磨は山名氏を経て再度赤松氏の領国となり、1557(弘治3)年には赤松政元が上月城に入り播磨西部に勢力を築き、その子政範とあわせ西播磨殿と呼ばれた。
1577(天正5)年羽柴秀吉が播磨に派遣されると、政範は毛利氏について宇喜多氏からの援軍とともにこれを迎え撃つも敗れ落城、政範は自害した。
政元が属する赤松七条家は、赤松則村(円心)の嫡孫である光範を祖とする赤松氏の嫡流家であり、七条家が守護職を務めた播磨・備前・美作三ヶ国にまたがる領国の中心に上月城は位置していた。
しかし赤松氏の勢力が衰退し領国内で国人層が割拠するようになると上月城の位置づけは変わっていき、1577(天正5)年10月に羽柴秀吉が播磨に派遣されると、上月城は秀吉に「備作播磨之堺目」と評された。同年11月に秀吉は上月城を攻撃し、政範は毛利氏について宇喜多氏からの援軍とともにこれを迎え撃つも敗れ落城、政範は自害した。
秀吉は上月城に尼子勝久を入れ毛利氏に備えさせ、一旦宇喜多勢が城を取り戻すも、再度織田勢が城を落城させるなど攻防が繰り広げられた。
しかし、翌年、別所氏が離反したため秀吉は戦力を播磨東部に後退させざるをえず、それをついて毛利・宇喜多勢が上月城を取り囲んだ。
秀吉は別所氏の三木城の支城を攻めながら、上月城の救援を企図するが、播磨に増派された織田勢は三木城の支城を攻めるばかりで、最終的に秀吉も信長の命もあり後退を余儀なくされ、上月城は見捨てられることとなった。
しかし翌年、別所氏が離反したため秀吉は戦力を播磨東部に後退させざるをえず、それをついて毛利・宇喜多勢が上月城を取り囲んだ。
秀吉は別所氏の[[三木城]]の支城を攻めながら、上月城の救援を企図するが、播磨に増派された織田勢は三木城の支城を攻めるばかりで、最終的に秀吉も信長の命もあり後退を余儀なくされ、上月城は見捨てられることとなった。
間もなく上月城の尼子勢は降伏、尼子勝久らは城兵の助命と引換に自刃、再興軍の中心人物であった山中鹿之助は捕虜となり移送中に殺害され、尼子氏再興の夢は潰えた。
上月城はそのまま廃城になったとされている。
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城跡は麓から遊歩道が整備されており、山頂部の主郭まで平易にアプローチでき、主郭付近の曲輪に配された土塁、堀切跡などを確認することができる。
また、周囲には赤松氏の墓や、尼子勝久らの供養塔がそんざいしている。
また、周囲には赤松氏の墓や、尼子勝久らの供養塔が存在している。

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|所在地|兵庫県佐用郡佐用町上月|
|現存状態|土塁・堀切等|
|城郭構造|山城|

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**城郭構造 [#f5767f43]

上月城は標高約190メートル、比高約110メートルの荒神山に築かれた。元々は荒神山の北に位置する大平山に築かれ、後に荒神山に移ったとされるが、詳細は明らかでない。
本丸は尾根の先端に位置し、東西の尾根筋がそれぞれ堀切で区画されている。このうち東側の堀切は浅いが、西側の堀切は二重になっている。また本丸の西には虎口状の窪みがあり、北西を除く周囲には腰曲輪が設けられ、これらが高低差を持つ切岸で区画された。
本丸の南側にはヤクラ丸と呼ばれる曲輪があり、その下に短い竪堀状の遺構があるがいずれも小規模で、構築途中だったとも考えられている。
本丸から尾根伝いに連絡する二の丸は尾根上に平坦面を確保しただけの単純な構造で、二の丸直下に設けられた堀切は土塁を伴い、北側に竪堀となって続き、その途中に横堀が派生して連続竪堀を形成している。
このように、上月城は毛利氏・宇喜多氏の大軍を相手に激しい合戦が行われたにしては小規模で発達した縄張を持たない城ではあるが、佐用郡においては東西約200メートル・南北約80メートルという規模は大きなものであり、この地域における中心的な城郭であったと考えられる。

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