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一夜の城 の変更点

*現実の城情報 [#information]

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天正10年(1582年)3月に織田信長の嫡男・信忠が[[高遠城]]攻めの本陣として構え、『信長公記』には「かいぬま原に御陣取」と記述されている貝沼原の陣と同一視されている陣城。
周辺には数多くの城館遺構が確認されているため、どの遺構が信忠の陣であったのか断定は難しいとも言うが、城郭研究家の中井均氏は他の城館跡は在地土豪の一般的な城館構築様式であり、小字を調べると全て「城」にまつわる名称がつけられていたことなどを理由に挙げ、平地に築かれ軍勢を周囲に置くことができる一夜の城こそが信忠の陣であるとしている。
ただし、城跡からは15~16世紀に作られたとみられる天目茶碗・古瀬戸四耳壷・内耳土器の破片などが発掘されており、その中には信忠が陣を張るよりも約150年前の陶磁器も存在すると言い、四方に構えられた堀は一夜で築かれた可能性は低く、一夜の城も在地土豪の城館を接収して陣を構えた可能性が高いとされる。
堀は鉄砲の使用を意識して拡張されたとみられる痕跡もあり、土塁の作り方は版築土塁であったことが確認されている。また、鬼門である北東には、第六天神がまつられている。
一夜の城という呼び名の初出は、明治34年(1901年)に刊行された『南信伊那資料』の「一夜の城と称するは、天正10年織田信忠、高遠城攻撃の際、一夜に堡塁を築きて陣せしと云う」という記述とみられる。
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虎口のある東側は土塁が良好に残り、織豊期の陣城としてその歴史的価値は高く、東国における城郭研究上極めて重要な遺跡であるとされる。
一方で、市道の拡幅工事により取り壊そうとする動きもあるが、研究者からの反対の意見もあり、現在工事は保留となり発掘調査が進められている。

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|所在地|長野県伊那市富県|
|現存状態|堀、土塁|
|城郭構造|平城|
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