ロッカ・スフォルツェスカ の変更点
*現実の城情報 [#information] //編集前に[[テンプレート/城娘]]の「現実の城情報」をご確認ください。(このコメントは必ず残してください。他のコメントは不要なら削除していいです) イタリア五大国の一つミラノ公国の領主スフォルツァ家などが支配した城で、女傑カテリーナ・スフォルツァでも知られる。 ロッカ・スフォルツェスカが築かれたイモラの歴史は古代ローマ時代に遡り、神聖ローマ帝国によるイタリア政策が盛んに行われた11世紀頃に簡単な城が築かれ、やがて教皇派(ゲルフ)と皇帝派(ギベリン)との争いや、都市国家から領域国家への変質で北イタリアでの抗争が激化していくなかの1332年に基礎となる城塞が築かれた。 15世紀にはミラノ公ヴィスコンティ家がイモラを支配し、その後スフォルツァ家がミラノ公となるとロッカ・スフォルツェスカもスフォルツァ家に引き継がれた。 この頃ロッカ・スフォルツェスカは火砲に対応した城塞へと改修され、方形の敷地の頂点にそれぞれ城塔を配置して城壁でつなぎ、その内部に主城塔が置かれる現在の姿となった。 #br #style(class=submenuheader){{{ &color(White,Maroon){続きをクリックで表示}; }}} #style(class=submenu){{{ 1473年、カテリーナ・スフォルツァはジローラモ・リアーリオと婚約し、ジローラモはイモラとフォルリの領主となった。 しかしカテリーナとジローラモによる統治は民衆にとっては圧政であり、1488年にフォルリで反乱が起こってジローラモが殺害された。 この時カテリーナはロッカ・スフォルツェスカには城代を置き自身もフォルリにいたが、自身の息子たちを人質に取って降伏を迫った反乱軍に対し、城壁に立ちスカートを捲り上げ「子供など、ここからいくらでも出てくるのを知らないのか!」と叫んだという。 事の真偽はさておき、援軍もあって反乱軍を撃退したカテリーナは女傑と称され、息子のオッタヴィアーノにイモラとフォルリを継がせ、自身は摂政となって実権を掌握した。 しかし民衆に圧政を敷いたのは変わらず、1499年にチェーザレ・ボルジアがイモラに侵攻すると民衆はカテリーナには従わず、チェーザレを迎え入れロッカ・スフォルツェスカは占領された。 チェーザレは次いでフォルリに侵攻し、カテリーナは城塞に籠もって抵抗したものの敗れ、ローマに送られて[[サンタンジェロ城]]に幽閉された。 その後チェーザレは自身が支配するロマーニャ公領の首都をイモラに定め、軍事技術者としてチェーザレと行動をともにしていたレオナルド・ダ・ヴィンチによってイモラの要塞化が進められた。 しかし1503年、チェーザレは父でありローマ教皇でもあったアレクサンデル6世の死後、アレクサンデルと対立していた新教皇ユリウス2世によって捕らえられ失脚した。 イモラは教皇領となり、その軍事的重要性が失われたためロッカ・スフォルツェスカは城塞としては用いられなくなり、牢獄となって20世紀に至った。 1973年には博物館となって一般に公開され、2010年に日本城郭協会によって「スフォルツァ城」として[[ヨーロッパ100名城>日本100名城#nacac76a]]に選定された。 }}} |BGCOLOR(#ddd):80|300|c |所在地|イタリア、エミリア=ロマーニャ州ボローニャ県イモラ| |現存状態|現存| |城郭構造|平城| *コメント [#comment] #pcomment(,reply,10,) |
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