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ルメリ・ヒサル の変更点

*現実の城情報 [#information]

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オスマン帝国スルタンのメフメト2世が、東ローマ帝国の都[[コンスタンティノープル]]を攻略するために築いた要塞で、「ローマの城」を意味する。
オスマン帝国によるコンスタンティノープル攻略の拠点としては、14世紀末にボスポラス海峡のアジア側にアナドル・ヒサル(アナトリアの城)が築かれていたが、メフメト2世はより圧力を強めるため、ヨーロッパ側にも拠点を築くことを決定した。
築城は1452年4月に開始され、メフメト2世が三人の大臣に城塔の建設を委ね互いに競争させたことで、わずか4ヶ月という短期間で要塞が完成した。当時この要塞はボアズ・ケセンと呼ばれており、後にルメリ・ヒサルと改名された。

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ボアズ・ケセンとは「喉元のカッター」という意味だが、この要塞の出現はコンスタンティノープルにとってはまさに喉元に刃物を突きつけられるような事態となった。
黒海からボスポラス海峡を通ってコンスタンティノープルに食糧を運ぶことを阻止するため、メフメト2世はルメリ・ヒサルの城塔に大砲を設置し、ボスポラス海峡を通過する全ての船に対し要塞の沖で停船し通行税を支払うよう通達した。
ほとんどの船がこれに応じたが、アントニオ・リッツォ率いるヴェネツィア船が停船命令を無視して強引に通行しようとしたため、ルメリ・ヒサルの大砲から放たれた砲弾によって撃沈され、乗組員は斬首された。
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東ローマ帝国とオスマン帝国はルメリ・ヒサル建設の前年に休戦条約を締結していたが、メフメト2世による建設の強行やヴェネツィア船の撃沈は、実質的に東ローマ帝国に対しての宣戦布告を意味していた。
そしてルメリ・ヒサルが完成した翌年の1453年、コンスタンティノープルは陥落し東ローマ帝国は滅亡することになる。

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|所在地|トルコ、イスタンブール県イスタンブール市サルイエル地区|
|現存状態|城塔、城壁など|
|城郭構造|丘城|

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