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リンカーン城 の変更点

**現実の城情報 [#jdef664e]

イングランド中部、ウィザム川の北岸にあるリンカーンシャーの州都リンカーンの城。
[[ウィンザー城]]等と同じく、ノルマンコンクエストの後征服王ウィリアム1世によってイングランド各地に築かれた城の一つ。1068年から築城。
やはりウィンザー城ら同級生の城と同じように最初は木造で急造され、後に石造の城に建替えられた。
築城にあたって現在の城の場所にあった住居166軒を立ち退かせた、と1086年のドゥームズデイ・ブックに記録されている。
21世紀に入ってから行われた発掘調査で立ち退かされた家の跡が出土し、この記述が裏付けられた。加えてそれまで存在が知られていなかったノルマン朝よりも前の古い時代の教会の痕跡も発見された。

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リンカーンという地名はローマ時代の名『リンドゥム・コロニア(植民市)』が縮まったものとされる。
リンカーンはローマ時代から水陸両方の交通の結節点として栄え、最初はローマ軍団の拠点、後に植民市となった。
ローマ時代に築かれた市壁が北の丘上から南の川岸まで南北二区画に分かれて中世の頃までは存在したがほとんど現存しない。
その北側区画が元ローマ軍団拠点(ローマンフォート)であり、更にその南西部分四分の一ほどに現在のリンカーン城が建っている。
ローマが撤退すると一時衰退するが、デーン人(いわゆるヴァイキング)が侵入・定住するとデーン人領域の交易の中心地として再び栄える。
政治勢力が代わっても街の繁栄は続き、中世にはイングランドで三番目に人口の多い大都市だった。
そのような地勢から何度も戦闘の舞台になり、中でも1141年と1217年の二次に渡るリンカーンの戦いが有名である。

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1141年の戦いはリンカーン城を攻めるスティーブン王と城を救援するグロスター伯ロバート(女君主マティルダ((イングランド史上初の女性君主だが、戴冠式を行えなかったことと統治の期間が短かったことから正式な女王とは数えられていない))の異母兄)の間で戦われた。
マティルダ派軍はスティーブン王を捕虜とする大戦果を挙げる。この戦いで城はダメージを負い、ルーシー塔が新たに建設される。
しかしマティルダ派は王を捕虜にしたものの支持を得られず、最終的にフランスへ亡命を余儀なくされた。

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1217年の戦いはジョン欠地王と貴族たちが争った第一次バロン戦争の最終盤戦で行われた。
前年にジョン王が死に息子のヘンリー3世が即位すると、ジョン王に反していた貴族たちは自分たちが担ぎ上げたフランス王太子ルイ(後のルイ8世)を投げ出してほとんどがヘンリー側に寝返った。
この状況に両軍は一旦は休戦を結んだが、ルイはフランスとの連絡を妨害し続ける[[ドーヴァー城]]を包囲する。
時を同じくしてルイの部下ペルシェ伯がリンカーンを攻め、来援したペンブルック伯ウィリアム・マーシャルとペルシェ伯の間で戦端が開かれた。
城攻めと反撃を両立させようとしたペルシェ勢はそれに失敗し壊滅。ペルシェ伯は戦死しその軍に加わっていた反乱諸侯は捕虜となった。
この敗北によって王太子ルイはドーバーから撤退することを強いられ、第一次バロン戦争は終結に導かれることとなる。
戦いの後、街はルイ派に加担したことで略奪を受けた。

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その後は洪水に襲われ疫病が流行しさらには宗教改革に伴って大聖堂が力を失い、泣き面に蜂状態で衰退。
17世紀イングランド内戦では王党派と議会派の勢力圏の境界上にあったためまたも戦場となった。
18世紀半ばになってやっとこの情況が好転する。1787年にはリンカーン城内に牢獄が設置される。この牢獄に使われた建物は現在も残っており、映画やドラマの収録にも使われている。近年ではドラマ『ダウントン・アビー』で牢獄のシーンに使われた。
城は現在リンカンシャー政府が管理しており、2010年から5年間かけて修復プロジェクトが行われた。
またリンカーン城内にはイングランドに4通のみ残るマグナ・カルタの原本が保管展示されている。

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城と向かい合う位置に建つリンカーン大聖堂は1072年から建設が始まり、全イングランドで有数の大聖堂となった。
近年では映画『ダ・ヴィンチ・コード』のロケ地になったこの大聖堂にはかつて全高160mに達する大尖塔があり、1311年の完成当時クフ王のピラミッドを抜き世界で最も高い人工建造物だった。
しかし1549年の大嵐で崩壊。エストニア・タリンの聖オーラフ教会(高さ159m)にその座を明け渡した。
160mという高さの記録は1846年にアメリカに高さ169mのワシントン記念塔が築かれるまで535年間抜かれなかった。
160mという高さの記録は1884年にアメリカに高さ169mのワシントン記念塔が完成するまで570年あまり抜かれなかった。

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|所在地|イングランド、リンカーンシャー、リンカーン|
|現存状態|城壁、モット、城塔他|
|城郭構造|囲郭式城郭|

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**城郭構造
丸みを帯びた台形をした、典型的なモットアンドベイリー様式のノルマン式城郭を石造城壁で囲んだスタイル。
同時期の[[ウォリック城]]と同じく後世の改修によって、城壁がモットの下側ではなくその真ん中を貫くように通るようになった。
リンカーン城の特徴は大小二つあるモットで、このような様式の城は数少ない。イングランドに現存するのはリンカーン城の他にルイス城のみと言われる。
大きいほうのモットにはルーシー塔と呼ばれるシェルキープ、小さいほうのモットには小ぶりな矩形キープが建つ。矩形キープには円状の尖塔がヴィクトリア時代の改修で付け加えられた。
東側、大聖堂と向かい合う側に正門があり城門塔を持つ。城の西側にはより小さい搦め手門がある。さらに北東側にも防御塔がひとつある。
西側の城壁はローマ軍駐屯地の市壁とほぼ同じ場所に建てられている。また城の西門の付近にはローマ時代にも門があった。
現在主郭内に立つ建物はビジターセンターと牢獄棟、そして王立法院(裁判所)である。

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