Top > ラーフェンスブルク城


*現実の城情報 [#information]

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南ドイツのボーデン湖畔、フリードリヒスハーフェンから北に約20キロメートルの地点に位置する、中世南ドイツ有数の商業都市ラーフェンスブルクに築かれた城。新ヴェルフェン家(ヴェルフェン=エステ家)の居城であり、中世のドイツ諸侯のなかでも特に強勢を誇ったハインリヒ獅子公生誕の地ともされる。
古ヴェルフェン家が断絶するとヴェルフ4世が新系統のヴェルフェン家を興し、1088年にラーフェンスブルク城を築いてシュヴァーベンやバイエルンのヴェルフェン家領の支配拠点とした。
ヴェルフ4世は叙任権闘争で神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世とローマ教皇が対立した際には教皇派につき、そのためにハインリヒ4世によって所領を没収された。この時シュヴァーベンがビューレン伯フリードリヒに与えられ、[[シュタウフェン城>ホーエンシュタウフェン城]]を築きシュタウフェン家を名乗ったこの家門は、ヴェルフェン家と激しく対立することになる。
その後ヴェルフ4世は子のヴェルフ5世を[[カノッサ城]]のトスカーナ女伯マティルダに嫁がせ、イタリアにおける勢力基盤の確保を図った。しかし1095年にヴェルフ5世はマティルダと離婚し、1096年にはヴェルフ4世はハインリヒ4世と和解しバイエルン大公に復帰している。
ヴェルフ4世の跡を継いだヴェルフ5世が死去すると、その弟であるハインリヒ9世黒公が跡を継ぎ、彼の娘ユーディトがシュヴァーベン大公フリードリヒ2世独眼公に嫁いだことで、ヴェルフェン家とシュタウフェン家は密接な婚姻関係を築くことになる。しかしハインリヒ黒公の子ハインリヒ10世傲岸公は神聖ローマ皇帝ハインリヒ5世の死によりザリエル朝が断絶した際、王位継承者をめぐってシュタウフェン家と対立することとなった。

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ハインリヒ傲岸公は新国王ロタール3世の一人娘ゲルトルートと結婚し、ロタール3世の死後には帝国権標を所有し、バイエルン大公領、ザクセン大公領、トスカーナ辺境伯領、マティルダの遺領を支配し、ドイツ諸侯でも群を抜く勢力を誇っていた。しかしそのために諸侯に警戒され、新国王はシュタウフェン家のコンラートが選出された。
これによりヴェルフェン家とシュタウフェン家との対立はますます激しいものとなり、新国王は両家の対立を解消することが大きな課題となった。
1138年にハインリヒ傲岸公は帝国追放刑を宣告され、ザクセン大公位とバイエルン大公位を剥奪されたが、すぐにザクセンを制圧しバイエルンにも兵を進めようとした矢先の1139年に急死した。
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このハインリヒ傲岸公の子がハインリヒ11世獅子公で、ラーフェンスブルク城で誕生したという。ドイツ王コンラート3世はヴェルフェン家との対立を和らげるため1142年にザクセン大公位をハインリヒ獅子公に与えた。ハインリヒ獅子公は1147年にはエルベ川右岸の経営を進めてメクレンブルクやオルデンブルクなどの司教区を設け、東方植民を推し進めた。
勢力を拡大するハインリヒ獅子公に対し、その従兄にあたるシュタウフェン家の皇帝フリードリヒ1世バルバロッサはヴェルフェン家との対立を解消するため、1156年にバイエルン公位をハインリヒ獅子公に返還する一方で、オーストリア辺境伯領をバイエルンから切り離してハインリヒ獅子公の勢力拡大を抑制しようとした。
しかしハインリヒ獅子公はザクセン・バイエルンの二大公領を有し、新設したミュンヘンやリューベックなどを含む40の都市と、70の城砦を支配しドイツの約5分の2を押さえる大勢力を誇るようになった。
さらにハインリヒ獅子公はイングランド王ヘンリ2世のマティルダと結婚し、東ローマ皇帝に接近するなど独自の動きを進めたが、1176年のフリードリヒ・バルバロッサのイタリア遠征への同行を拒否したためザクセン・バイエルンの大公位を剥奪された上に帝国追放刑に処され、ノルマンディーに亡命した。その後フリードリヒ・バルバロッサの子である皇帝ハインリヒ6世と和解し、ブラウンシュヴァイクに隠退した。
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ラーフェンスブルク城はシュタウフェン家の所有となり、ヴェルフェン家は所領を大幅に削減されたため勢力は弱まることとなったが、両家の対立はその後も続いた。その対立はドイツを超えて広がり、ヴェルフェン家の皇帝オットー4世はイングランド王リチャード1世獅子心王と結び、シュタウフェン家のドイツ王フィリップはフランス王フィリップ2世尊厳王と結んで対抗した。
このドイツ王権をめぐる対立は1214年のブーヴィーヌの戦いでオットー4世・イングランド王ジョンなどの連合軍がフィリップ尊厳王のフランス軍に敗れ、ヴェルフェン家が皇帝位を失ったことでほぼ決着がついた。そして1253年のマインツ宮廷会議で最終的に対立が解消されることとなる。
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やがてシュタウフェン家の男系が断絶すると、ラーフェンスブルク城は皇帝家の所有となり、1276年にラーフェンスブルクは帝国自由都市となった。
ラーフェンスブルク城はその後紆余曲折を経て、16世紀から1803年まではゲーラー家がほぼ一貫して所有していた。しかし三十年戦争でスウェーデン軍に攻撃されたことによって城は荒廃し、都市ラーフェンスブルクも衰退していった。
現在は城の中庭にあたる部分に望楼が残っており、かつては「ハインリヒ獅子公生誕の地」と書かれてあったという。

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|所在地|ドイツ、バーデン=ヴュルテンベルク州ラーフェンスブルク|
|現存状態|望楼など|
|城郭構造|山城|

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