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ランカスター城 の変更点

*現実の城情報 [#information]

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イングランド北西部ランカシャーの州都ランカスターに建つ城。
ランカスターは街を流れるルーン川にちなんだ地名で『ルーン川の城の町』を意味する。ローマ時代から駐屯地(ローマンフォート)が置かれた。
スコットランドと対峙するカンブリア地方の後背に位置しており、[[カーライル城]]などの最前線の城を支援する役割も担っていた。
中世以降現代まで王家の城となって城内に法廷と牢獄が置かれ、ロンドン以外で一番多くの処刑を行ったことから『縛り首の城』とも呼ばれた。
1612年には有名なペンドル魔女裁判の舞台となったことでも知られる(後述)。

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紀元79年に建設されたローマンフォートの跡地に、ノルマン人領主ロジャー・ド・ポワトゥーによって1090年代に初代の城が築かれた。
ちなみに城の北側にはローマ浴場の遺跡も現存している。初代の城はモットを持たず、堀と木造の城壁で囲んだだけの簡素な城だった。
初代の城はモットを持たず、堀と木造の城壁で囲んだだけの簡素な城だった。ちなみに城の北側にはローマ浴場の遺跡も現存している。
ロジャーはヘンリー1世に対して反乱を起こし敗れて追放され、城はヘンリー1世の甥スティーブン・ブロワ(のちのスティーブン王)に与えられた。
しかし、ヘンリー1世の娘マティルダとスティーブンのいとこ同士が王位を争った『無政府時代』と呼ばれる内戦のさ中、内戦に介入したスコットランド王デイヴィッド1世(マティルダの母方の伯父)によって占領される。
しかし、ヘンリー1世の娘マティルダとスティーブンがいとこ同士で王位を争った『無政府時代』と呼ばれる内戦のさ中、内戦に介入したスコットランド王デイヴィッド1世(マティルダの母方の伯父)によって占領される。
のちにマティルダとスティーブンとの和睦条件に従ってスコットランドから返還され、マティルダの息子ヘンリー2世の直轄地となった。
現在残る城の主城塔はこのスコットランド勢による占領中に建てられたとも、その後ヘンリー2世の息子ジョン王の時代に建てられたとも言われる。
城壁が石造になったのはヘンリー3世の時代だった。
ヘンリー3世の時代にさらに城壁が改築されている。

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1267年、ランカスター城と周辺の所領がヘンリー3世の王子・ランカスター伯エドマンドに与えられる。これがランカスター家の始まりである。
1267年、ランカスター城と周辺の広大な所領がヘンリー3世の王子・ランカスター伯エドマンドに与えられる。これがランカスター家の始まりである。
ランカスター家はイングランド最大の諸侯として影響力を強め、紆余曲折を経て1399年にランカスター家出身の国王ヘンリー4世が即位する。
これ以降ランカスター城は王家の城となり、現在に至っている。ランカスター公は王位に付随する称号となり、当然現公爵は女王エリザベス2世。
15世紀以降ランカスター城は法廷と牢獄として使われる。16世紀ヘンリー8世の宗教改革ではカトリック派修道士の処刑の場となった。

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イングランド内戦初期の1643年、少ない守備兵を制圧して議会派が城を占拠。王党派は城を奪還しようと1643年と48年に計三度にわたって城を攻めるが成功せず、内戦の終結まで議会派に占拠されていた。
チャールズ1世王が処刑された後破却命令が出される。城壁はなくなったもののそれ以外は不徹底に終わり、王政復古の後に修繕された。
チャールズ1世が処刑された後破却命令が出されるが、城壁はなくなったもののそれ以外は不徹底に終わり、王政復古の後に修繕された。
その後も引き続き法廷兼牢獄として使われ、対外戦争の捕虜収容所としても用いられた。牢獄でなくなったのはつい先年、2011年だった。
長期に渡って使われて時代に合わせて改修され続けたが、中央部の主城塔は12世紀に建造されたそのままのものが現在に残っている。
なお現在も裁判所として現役であり、当然ながら裁判が開かれているときは見学できない。旧牢獄部分は見学可能である。

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|所在地|イングランド、ランカシャー、ランカスター|
|現存状態|現用(裁判所として)|
|城郭構造|囲郭式平城(ただし城壁は一部を除き現存せず)|

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**ペンドルの魔女事件
1612年に行われた魔女裁判。告発された魔女たちはランカスター城で絞首刑に処せられた。
イングランドは全体としては魔女裁判が大々的に行われた土地ではなかったが、それでもいくつかの例があり、その中でも有名なのがこの事件。
魔女裁判といえば一般的には『魔女の疑いをかけられた人間((※女性に限らない))が無実の罪で処刑』という印象が強いが、この事件に関しては違った。
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1612年、ある行商人がランカシャーのペンドル・ヒルという村で変死した。少女に針を売ることを拒否したとたんに死んでしまったのだという。
行商人に呪いをかけたとして少女とその一家が魔女告発され、一家は魔女裁判にかけられる。ここまでは時代的によくある話、なのだが。
問題は、この一家が実際に魔術(と称するまじないや祈祷)を使って生計を立てていたことだった。
そのうえ訴えられたこの一家、なんとついでとばかりに&color(Blue){同業者で商売敵の別の一家を告発};し裁判合戦となったのである。
ランカスター城内での審理の結果、両家合わせて女8人男2人が絞首刑に処され、老婆1人が獄中死したという。
罪状の中には行商人を殺しただけでなく、子供殺し、食人、家畜を盗んだ(魔術儀式のための生贄)ことなどが含まれていた。
節目ごとに記念行事が行われるほど有名な事件で、この事件を題材にした作品が多数作られ、地元のバスの車体デザインにも使われている。
2011年、この魔女達が集会を開くために集まっていた小屋「マルキン・タワー」が偶然発掘され、壁の中から猫のミイラ化した死骸が発見された。
裁判後400年となる2012年には記念イベントがランカシャーの州政府を巻き込んで大々的に開かれたそうである。

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