Top > マクヘンリー要塞


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フォートマクヘンリーはアメリカ東海岸、チェサピーク湾から繋がるメリーランド州ボルティモア港を防衛するために設けられた星型要塞。
マクヘンリーの名は要塞の建造当時、初代大統領ワシントンの元で陸軍長官を務めていた地元メリーランド選出の政治家で元軍医ジェイムズ・マクヘンリーに由来する。
アメリカ合衆国の国歌『星条旗』の発祥の地として知られ、アメリカの国定記念物(ナショナル・モニュメント)および国定公園に指定されている。
1776年に砦が築かれていた場所に1798年から1800年にかけて改めて建造された。
オーソドックスで端整な星型要塞であり、堡塁と空堀で防御されている。

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この要塞が経験した唯一の実戦が、米英戦争中のボルティモアの戦いでの対艦戦闘である。
1814年9月13日朝、コクレイン中将に率いられた対地攻撃用の臼砲艦5隻とロケット砲艦1隻、それを護衛するフリゲート5隻など十数隻からなるイギリス艦隊がチェサピーク湾に侵入し、ボルティモア港を守備するマクヘンリーに対して砲撃を仕掛けた。
防衛側が港入り口に事前に沈めた封鎖船と防護鎖のために艦隊は接近して砲撃することが出来ず、双方が長距離の砲撃戦に終始した。
この間、艦隊は雨と夜陰に乗じて陽動のために陸戦隊を上陸させたものの、天候の悪さから失敗に終わる。
膠着状態を打破できなかったことから、艦隊側は翌朝25時間に渡って続いた砲撃戦を打ち切って撤退した。
戦闘時間は長かったが死者はアメリカ側に4名のみ、負傷者もアメリカ24人イギリス側はわずかに1人であった。
のちの国歌『星条旗』はこの戦いをきっかけに作られた(後述)。
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その後1848年頃まで防御拠点だったが、港のさらに外側にフォート・キャロルを中心とする防衛陣地が作られたことでそちらに比重が移った。
南北戦争中は兵舎が捕虜収容所として使われ、また南軍に同情的とみなされた政治家が隔離収容された。
皮肉なことに『星条旗』を作詞したキーの孫も収容された政治家の一人であった。
第一次大戦では欧州戦線から戻ってくる傷病兵のための病院として使われ、第二次大戦では沿岸警備隊の基地が置かれた。
1925年に国定公園、1966年に歴史登録財に指定され、現在も引き続き一般公開されている。
星条旗のデザインが新しくなるたびにまず最初にマクヘンリー要塞に掲げられることが慣例になっており、直近ではハワイが州に昇格した1960年に行われた。

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|所在地|アメリカ合衆国、メリーランド州、ボルティモア|
|現存状態|現存|
|城郭構造|星型要塞|

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**国歌『星条旗(The Star-Spangled Banner)』
1814年の戦時、マクヘンリー要塞にはストーム・フラッグと呼ばれる特大サイズの星条旗が掲げられていた。
翌朝船上から砲撃戦を経ても無傷で翻っているこの旗を見た弁護士フランシス・スコット・キー(捕虜交換交渉のためイギリス艦隊を訪れていたが戦闘が始まり陸に戻れなくなっていた)が、その光景に感銘を受けて書いた詩『フォート・マクヘンリーの守り』が『星の煌く旗(原題直訳)』と名前を変え、酒場歌「天国のアナクレオンへ」のメロディに載せて歌われるようになった。
この歌は非公式な愛唱歌として長く親しまれていたが、1931年に合衆国の正式な国歌として採用され、現代でも歌い続けられている。
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なお、1896年に作曲された行進曲『星条旗よ永遠なれ(Stars and Stripes Forever)』とは別の曲である。こちらは1987年に合衆国公式行進曲として指定された。

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