Top > ヘイスティングス城


*現実の城情報 [#information]
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イングランド南部海岸の歴史ある港町ヘイスティングスの海沿い高台に建つ城。この近郊で1066年著名なヘイスティングスの戦いが行われた。
ヘイスティングスはローマ時代以前から港町として栄えていた港湾都市で、城の建つ高台にはサクソン時代の城砦もあった。
その場所に城が築かれたのはヘイスティングスの戦いの前後、防御体勢を固めるためにモットアンドベイリー式の城が急造された。
築城の様子はウィリアム1世によるイングランド征服を記録した『バイユーのタペストリー』にも記録されている。

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ウィリアム1世がイングランドを制圧すると1070年代には早くも石造の城に建て替えられ、家臣のウー伯ロベールに与えられその一族が代々治めた。
ノルマンディ公国を初めとする大陸領土が健在だった時代、歴代の王がイングランドと大陸を移動するたびにヘイスティングスに立ち寄った。
しかしジョン王の時代にフランスの王太子ルイの侵攻を受けると、落城して拠点として使われるのを避けるために破却された。
その後1220年にヘンリー3世によって、同じ場所に新たに石造の囲郭式城壁として拡大強化して再建されたのが現在残る城である。
ジョン王の時代の大陸領土失陥によってウー伯はフランス王に恭順していたため、ヘンリー3世の王妃エリナー・オブ・プロヴァンスの伯父リッチモンド伯ピーター((サヴォイア伯ピエトロ2世))に[[ペヴェンジー城]]と共に与えられた。伯の死後は王妃エリナーの所領となった。
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1287年、暴風雨によって城の建つ砂岩質の丘の一部が崩壊し、残った土地に縮小して城が再建された。
雨と海の侵食による崩壊と縮小はその後も徐々にすすみ、現在残っているのは全盛期の半分ほどになってしまっている。
14世紀にフランスの攻撃を受けて残った部分も破壊され、土地が不安定ということもあり城としては放棄された。
城は再建されなかったが、海岸沿いの高台という場所から戦時には海峡を通行する船の監視所として用いられ、第二次大戦ではドイツ空軍の空襲を受けた。

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城の構造としては単純な囲郭式で、海沿いの尾根筋の先端部分に城があり、陸側の尾根との間に堀を切って防御していた。
しかし城の建物の遺構はヘンリー3世の時代のゲートハウスと教会堂の一部および城壁の一部以外、前述の浸食と崩壊で失われてしまっている。

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|所在地|イングランド、イースト・サセックス、ヘイスティングス|
|現存状態|城壁、城門塔、教会堂跡|
|城郭構造|囲郭式城郭|
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