Top > フラムリンガム城


*現実の城情報 [#information]
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ウィリアム1世の側近チェスター伯ヒュー・ダヴランシュ((ド・アヴランシュとも書く))の家臣でサフォーク代官ロジャー・ビゴッドによって統治と防衛の拠点として築城。
初代の城はモットアンドベイリー形式またはモットを持たないリングワーク形式のどちらかだったとされている。12世紀前半に一部が石造化された。
ヘンリー2世の息子達((若ヘンリー、リチャード1世、ジェフリー))が共同して父王に反乱した「1173年の反乱」でビゴッドは王子側につき、国王軍によって落城・鎮圧される。
その後1180年代から90年代にかけてロジャー・ビゴッド(初代城主の同名の孫)によって石造の囲郭式城郭として再建された。
キープを持たず、代わりに城壁の各所に設けた13個の防御城塔で防御を固めており、集中式城郭への過渡期の城といえる。

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第1次バロン戦争ではジョン王軍に攻められ開城するが、ジョン王の死と共にビゴッド家に戻る。
13世紀エドワード1世の時代に借金の返済と引き換えに王の城となった。王の死後、王子の一人ノーフォーク伯トマスに与えられた。
トマスの死後彼の長女の孫トマス・モウブレーに受け継がれ、さらにその孫ジョン・ハワードに受け継がれ、以後ハワード家の城となる。
ジョン・ハワードは薔薇戦争においてヨーク派に着き、のちにはリチャード3世の即位を支持したためその功によりノーフォーク公爵に叙される。
この時代、公爵の爵位は基本的に王族にのみ授与されるもので、王族扱いではない貴族が公爵となったのは初めてのことだった。
これ以降、代々の王との関係によってノーフォーク公爵位は剥奪と復権が繰り返されて現在に至る。
2代公爵トマスはリチャード3世を破ったヘンリー7世によって爵位を剥奪されるが、後にスコットランド軍を撃破した戦功で復帰を許された。
3代公爵は二人の姪をヘンリー8世の信頼を失いロンドン塔に投獄され、処刑予定の前日にヘンリー8世が死んだために九死に一生を得た。
3代公爵は姪二人を王妃にしたが、ヘンリー8世の信頼を失いロンドン塔に投獄され、処刑予定の前日にヘンリー8世が死んだために九死に一生を得た。
後にエドワード6世が死にジェーン・グレイが女王に擁立されると、彼はフラムリンガム城にメアリ王女(後の女王メアリ1世)を匿った。
4代公爵がエリザベス1世と反目した末に1572年に大逆罪で処刑されると、ハワード家の主城だったフラムリンガム城は没収されて王家の所有になり、ハワード家は[[アランデル城]]に移った。

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エリザベス1世の没後、城はジェームズ1世からハワード一族のサフォーク伯に与えられたが1635年に法務長官ロバート・ヒッチャム卿に買い取られる。
ヒッチャムは翌年に死去するが、死に先立って城の主郭の建物を取り壊して救貧院を作るよう遺言し、その通りに実行された。
結果的に、この遺言のためにフラムリンガム城はこの後の内戦で破壊されることを免れ、現在までその姿を残すことができたと言える。
18世紀にかけて残った城館も徐々に取り壊されて救貧院の建物が増築され、またこの間1666年にはペストが流行し隔離病棟としても用いられた。
ナポレオン戦争期には地元義勇軍の武器庫や倉庫としても使われ、第二次大戦でも付近に国土防衛軍の陣地が築かれた。
現在は西側の溜め池を挟んだ対岸にある共学寄宿学校(フラムリンガムカレッジ)が所有し、イングリッシュ・ヘリテイジが管理・公開している。
この溜め池は救貧院だった時代には手入れされなくなったため、やがて草地に戻ってしまった。

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フラムリンガム育ちのシンガーソングライター、エド・シーランはCastle on the hillでこの城のことを歌っていて、MVもこの城で撮影された。
ちなみにこの歌、「90マイルで田舎道を」という歌詞があり、地元警察から「先を急ぐ気持ちはわかるけどもっとゆっくり」とコメントされている。

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|所在地|イングランド、サフォーク、フラムリンガム|
|現存状態|城壁、土塁、塔|
|城郭構造|囲郭式城郭|

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***城郭構造

前述のとおりにキープを持たない囲郭式城郭で、高さ10.5メートル厚さ2.3メートルに達する城壁と、その各所の防御塔で主郭を防御している。
13ヵ所にある塔はいずれも高さ約14メートルで、内側には壁がないコの字型となっている。
主城門は比較的シンプルな設計になっている。これは城門塔(ゲートハウス)が攻防の重点として重厚になっていくよりも前に造られた為。
主郭は堀に囲まれており、東から南にかけての外側に外郭がある。この外郭部分は現在は城の駐車場兼広場になっている。
これとは別に西側にも別の外郭があった。これらの外郭はそれぞれ土塁と空堀で防御されていて、土塁の上に木製城壁が建っていた。
また西側から北西側には人工の溜め池があり、西側の防衛線となっている。
現在の主郭の内部には城時代の建屋は一切なく、残っているのは救貧院時代の建物である。

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