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ビューマリス城 の変更点

*現実の城情報 [#information]

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ウェールズ最大の島アングルシー島南東部の港町ビューマリスに建つ城。[[アイアンリング>日本100名城#b2a2238d]]の一員で世界遺産。ビューマリスは「美しい湿地」を意味する。
イングランド王エドワード1世がウェールズを占領したのち、アングルシー島の統治のための城としてビューマリスの町とともに新しく建設された。
二重の城壁と多数の塔を持つ対称形の整った城郭構造は、よりあとに作られた他の城にも影響を及ぼしている。

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1284年には建設計画が持ち上がったが資金不足で延期され続け、1294年のマドック・アプ・スリウェリンの反乱を受けて改めて翌年から築城が始まった。
設計を担当したのはアイアンリングの他の城と同じくセントジョージのマスター・ジェイムズである。
建築に関する詳細な史料が残っていて、石工や人足に支払った給金の明細までも記録されている。
築城が始まった1295年当初は資金(と人数)が潤沢だったが、翌96年には3分の1まで減少、1300年には年間予算わずか100ポンドまで減少した。
工事は中断の後1306年に再開されたがエドワード1世の関心はスコットランドに移っており、工事自体は1330年まで続いたが最終的に中止。
城本体の工事はほぼ終わっていた。1343年に完成には684ポンドが必要であると改めて試算されたが、これが支出されることはなかった。
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1403年にはオワイン・グリンドールの反乱で落城、1405年に奪還される。
16世紀には補修さえ行われていなかったらしく、城の建物のほとんどで雨漏りがあり武器もわずかしか備蓄されていないと記録が残っている。
17世紀のイングランド内戦では王党派側が城に立て籠もったが、カーナーヴォン城が落城すると開城降伏する。
1987年に[[カーナーヴォン城]]・[[コンウィ城]]・[[ハーレフ城]]とともに世界遺産に認定された。
1987年に[[カーナーヴォン城]]・[[コンウィ城]]・[[ハーレック城]]とともに世界遺産に認定された。

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|所在地|ウェールズ、アングルシー島、ビューマリス|
|現存状態|城壁、城塔|
|城郭構造|集中構造|

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**城郭構造

シンメトリーなほぼ正方形の内郭と六角形(に見えるが、東西の城壁はわずかに角度がついていて実際には八角形)の外郭を持つ均整の取れた城。
典型的な集中様式(Concenric)を採用しており、キープ(天守)がなく城門塔と城壁の各所に配された塔で防御を固めている。
内側の城壁は高さ11メートル厚さ4.7メートル。この厚い城壁と南北二つの城門塔そのものが同時に居住・生活スペースを兼ねていた。
外郭側はそれより低くて薄く、またかつては南側で市壁に連結されていた。南西側に城門があり、濠を跳ね橋で越えて外部と連絡していた。
水濠は外郭の更に外側に全周に巡らされる予定だったが、東側は建設中止により草地のままになっている。
アイアンリングの中で最後発かつ建築に制限を受けない平地に建てられたため、設計自体の完成度は最も高いとされる。

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