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バンバラ城 の変更点

*現実の城情報 [#information]

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イングランドで最も北東部に位置するノーサンバーランド、北海沿いの海抜45メートルほどの岩の丘の上に建つ城。約9エーカーに及ぶ城地を持つ。
見るからに堅固な城構えで、その立地から古くは鉄器時代または青銅器時代に遡って城塞・防御設備として利用されていた。
しかしマルコム・ヒスロップの著書『How To Read Castles(邦題:歴史的古城を読み解く)』によればその立地ゆえに設計が制限され、基盤となる岩の輪郭に沿った形でしか拡張できず中世以降の増築計画にも余裕がなかったようである。
海辺の堅固な古城というイメージに違わぬ外観から多くの本、絵、舞台劇、映画、テレビドラマ等の舞台やモデル、ロケ地となった。
城は三つの郭が連なる形の囲郭式城郭で、一番東側の主郭に城館が建つ。主郭と内郭の間に矩形キープがあり、その下に主城門、西側の外郭に搦め手門がある。

//公式ページの丸写しだったため文章を大幅に改稿しました。

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6世紀中盤、アングロサクソン系諸王国のひとつベルニシア王国((バーニシアとも。のちのノーサンバランド王国))の王城として要塞化され、対立するブリトン人との争奪戦が繰り広げられた。
この頃の王妃の一人ベッバが暮らしたことからベッバの城(バラ)と呼ばれるようになり、それが転嫁してバンバラとなった。
オズワルド王の治世の頃には王が招いた修道士たちがリンディスファーン島に修道院を作り、この地方は宗教的な中心地ともなった。
オズワルド王の治世の頃には王が招いた修道士たちが[[リンディスファーン島>リンディスファーン城]]に修道院を作り、この地方は宗教的な中心地ともなった。
マーシアなど諸王国との戦いでも難攻不落の堅城だったが、北海から進出してきたヴァイキングの攻撃を受けて落城、破壊される。
その後ノルマン・コンクエストののち、ノルマン人領主ノーサンバランド伯ロバート・ド・モーブレイが現在に残る城の基礎を築く
1095年、モーブレイはウィリアム2世に対し反乱を起こしたが破れ捕虜となる。王はなお抵抗をやめない城を攻めあぐね、城を守っていた伯爵夫人の前に夫を引き出した。そこで降伏かモーブレイの目を抉り出すかを選ばせ、助命と引き換えに城を明け渡させた。逆に言えばそこまでしないと当時の軍では陥落させるのが難しかったのである。
その後王室の所有となり、12世紀から14世紀にかけてスコットランドの攻撃に備えて陸海からの攻撃に対応できるよう強化される。
14世紀にはスコットランド軍によって包囲されたが撃退している。現在残るメインキープはこの間ヘンリー2世の時代に造られた。
薔薇戦争中の1464年、9ヶ月に及ぶ籠城の末[[ウォリック>ウォリック城]]伯の攻撃で落城。ちなみにこの戦いがイングランドにおいて攻城に大々的に大砲を使用した最初の例だといわれている。

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ジェームズ1世の時代、城は長らく城代を務めていたフォスター家に下賜される。しかしフォスター家は17世紀末に破産。
城は荒れ果てたまま複数の所有者を転々とするが、18世紀頃から徐々に復元の手が入り始める。
1894年に発明家で実業家の初代アームストロング男爵(かのアームストロング砲の開発者御本人)が城を購入、大復元工事を行って現在に至る。
現在もアームストロング家が管理しており、復元された城館部分の公開のほか、初代男爵の発明品やアームストロング社製品の博物館にもなっている。
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ちなみにイギリスの古城につきものの幽霊譚ももちろん完備。
この城の幽霊はアングロサクソン時代の王女で、父王によって恋人と引き離され、王が機嫌を取るために贈ったピンク色のドレスを身に纏って城から飛び降りて死んだという「ピンクのレディ」である。

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|所在地|イングランド、ノーサンバーランド、バンバラ|
|現存状態|主要部現存|
|城郭構造|平山城|
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