Top > サン・ペドロ・デ・ラ・ロカ城


*現実の城情報 [#information]

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キューバ島南岸の大都市サンティアゴ・デ・クーバのあるサンティアゴ湾の湾口を守備するために17世紀に築かれた要塞。
当時のキューバ島はスペイン領で、対立するイングランド海軍や私掠船(国家公認海賊)、または単なる海賊によってたびたび襲撃を受けていた。
これら海からの攻撃に対する防御として要塞が築かれるようになり、南岸の植民都市サンティアゴの防御要塞として築かれたのがこの城。
元々この土地には16世紀末に守備砲台が建造されていたが、これを拡大大強化する形で築かれた。
モロ城(Castillo del Morro)とも呼ばれるが、これは丘/岬/湾口(スペイン語でMorro)にある城・要塞の名前としてスペイン語圏ではよく見られ、同じキューバでもハバナ湾口の要塞が同じ名前で呼ばれている。

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サンティアゴ総督ペドロ・デ・ラ・ロカ・イ・ボルハの依頼でミラノ生まれの軍事技師フアン・バッティスタ・アントネジ((イタリア名ではアントネッリ))が設計に当たった。
1637年に設計、1638年から建設が開始される。ボルハ総督は1640年に、設計技師のアントネジも1645年に島を離れたが建設はその後も断続的に続けられ、1680年に完成した。城の名前はボルハ総督の名前に因んでいる。
1662年にはイングランドの私掠船長クリストファー・ミングスに率いられた私掠軍によって2週間にわたってサンティアゴ周辺が占領される。
建設途中だった要塞もこの時占領され、資材や大砲の一部が持ち去られた。占領軍が引き上げたのち守備兵が増強され、建設が進められた。
その後も数度にわたって私掠船や海軍の攻撃を受けたが撃退に成功。18世紀に入っても改修が続けられ、政治犯収容所としても用いられた。
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1898年に米西戦争が勃発するとキューバ島はアメリカに対する前進基地として用いられ、要塞は再び軍事目的に使われた。
米西戦争でサンティアゴ港はアメリカ陸海軍によって包囲攻撃を受け、要塞もその最前線のひとつとして米軍と砲火を交わした。
湾口を封鎖しようとするアメリカ海軍と突破を図るスペイン海軍の間でサンティアゴ・デ・クーバ海戦が起き、要塞の砲台は米軍の封鎖船を撃沈((実際には封鎖のための自沈。ただし砲撃によって予定位置での自沈には失敗))している。
米軍は1898年7月14日から要塞およびサンティアゴ市への総攻撃に移る計画を立てていたが、実際にはその前にスペイン守備隊が降伏した。
20世紀に入ると要塞は放置されたが、1960年代にフランシスコ・プラート・プイグ教授の指揮のもとで修復工事が始められ、1997年にはスペイン帝国がラテンアメリカに建造した要塞の中でも最良の保存状態を示す一つとして世界遺産に登録された。
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要塞はもっとも海岸に近い外郭から丘の上に四層構造になって連なる形になっており、一番高い主郭は陸側にも星型の稜堡を築いて防御されている。
最外郭には船着場もあり、ここから資材や食料弾薬を直接運び込めた。城の内部には岩場をくりぬいた武器庫や食糧庫も備えられていた。

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|所在地|キューバ共和国、サンティアゴ・デ・クーバ|
|現存状態|現存(一部復元)|
|城郭構造|星型要塞|

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