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コパン の変更点

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コパン遺跡は標高600メートルのコパン谷に立地するマヤ低地南東部の政治・経済・宗教の中心地として栄えた大都市であり、ホンジュラス西端に位置し、現在ではユネスコ世界遺産に指定されている。
3万点以上モザイク石彫が神殿ピラミッドや王宮、貴族の邸宅を飾り、独特の丸彫りの立体調の石碑が林立するコパンは当時マヤ文明の東の芸術の都であった。また、経済では交換物として黒曜石が使われた。
遺跡に入るとまず、立派な石碑や祭壇が立ち並ぶ大広間に突き当たる。13代目の大王ワシャクラフーン・ウバーフ・カウィール(695-738年統治)の命によって建造された。
マヤ文明の多くの遺跡では初代王が本当に存在していたのか、神話上の存在なのかよく分かっていない。しかし、コパン遺跡ではアクロポリスの大規模な調査によって初代王の治世である5世紀前半の建造物群が発見された。
その王の名はキニチ・ヤシュ・クック・モ王で、キニチは「太陽」、ヤシュは「緑」、クックは「ケツァル鳥」、モは「コンゴウインコ」を意味する。遺跡は16代王が死去した9世紀初頭まで400年間ほど継続した。
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マヤ低地で建築に使用される石材のほとんどは石灰岩だったが、コパンでは凝灰岩が主流で、独特の丸彫り石彫様式で仕上げられた。凝灰岩は日本でいう大谷石に近く柔らかめで加工しやすい特徴がある。
大広間を南に進むとマヤ地域で2番目に大きな球戯(球技)場がある。平面はI字型で、二つの建物の傾斜する壁にはオウムの石彫の得点板が嵌め込まれた。
球技は数人の2組がひとつのゴム球で競う国家儀礼や政治活動を兼ねたスポーツであった。王が球技に参加することもあり、球技者は王族や貴族であったという。
ゴム球とは言え、現在の空気を入れる方式の柔らかい球ではなく、ゴムの塊を投げつけるため、あたりどころが悪ければ骨折も覚悟しなければならない。そのため球技者は球技具や防具で身を固めた。
腕・尻・腿などに球を打ち当て相手側の端に入れるか、得点板に当てて遊んだとされる。球技の恐ろしいところは負けた組は最悪の場合、神への生贄にされるということだ。
外部の勝手な死生観でマヤ人は生贄を名誉と思っているとされているが、今も昔も変わらず誰でも死ぬのは怖い。球技者は文字通り死に物狂いで競技に挑んだと思われる。
球戯場に隣接してマヤ遺跡の中では有名な「神聖文字の階段(マヤ字の階段)」を備えた神殿ピラミッドが建つ。先スペイン期のアメリカ大陸では最大最長で、5世紀から7回にわたり改築され、753年に15代目の王が完成させた。

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|所在地|CA 11, Copán Ruinas, ホンジュラス|
|現存状態|神殿ピラミッド、球技場、その他|
|城郭構造|都市|

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