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ウィーン の変更点

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神聖ローマ帝国の都であり、ドイツ民族全体の帝都でもあった、ヨーロッパ屈指の名門・ハプスブルク家の本拠地。
古代ローマの軍事都市ヴィンドボナが始まりで、1155年にバーベンベルク家のオーストリア辺境伯ハインリヒ2世がウィーンを居城とし、都市の整備を進めた。
ハインリヒ2世はやがてオーストリア公に昇格し、その子レオポルト5世はウィーンの城壁を増築し、これがのちの帝都ウィーンの原型となった。

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バーベンベルク家の男系が断絶するとウィーンはボヘミア王オタカル2世の支配下に置かれるが、1273年に神聖ローマ皇帝となったハプスブルク家のルドルフ1世がオタカルを破り、以後ウィーンはハプスブルク家が支配するようになる。
神聖ローマ皇帝としてのハプスブルク家の地位は安定せず、また本拠地であるスイスを失うが、かえってオーストリア支配に注力できるようになり、ルドルフ4世はオーストリア大公を名乗りウィーンの象徴であるシュテファン大聖堂を築くなど、ウィーンは神聖ローマ皇帝カール4世により繁栄した[[プラハ>プラハ城]]と並んで発展することとなった。
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1438年に神聖ローマ皇帝に即位したアルブレヒト2世以降、神聖ローマ皇帝位はハプスブルク家が世襲し、ウィーンは神聖ローマ帝国の都として華やかな宮廷文化が栄えるようになった。
神聖ローマ皇帝とスペイン王を兼ねたカール5世はハプスブルク帝国の最盛期を築き「太陽の沈まぬ国」と称されたが、これに対抗したフランス王フランソワ1世はオスマン帝国のスレイマン1世と同盟し、スレイマンは1529年にウィーンを包囲した。
当時ウィーンを守っていたカール5世の弟フェルディナントはウィーンを脱出しリンツに逃れたが、強固な城壁が増築されたウィーンは守備軍のみでオスマン帝国軍に抵抗し、補給がままならず寒波が襲来したこともありオスマン帝国軍は撤退した。
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この第一次ウィーン包囲によってウィーンは「トルコの脅威」を直に体験することとなり、最新の築城技術を取り入れたより堅固となった城壁によってウィーンの守備体制の強化が図られた。
1683年には再びオスマン帝国がウィーンを包囲し、皇帝レオポルト1世はウィーンからパッサウに逃れたが、またも守備軍の奮闘でオスマン帝国軍は攻めあぐね、ポーランド王ヤン3世ソビエツキを中心とする連合軍がオスマン帝国軍を撃破した。
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「トルコの脅威」から解放されたウィーンは城壁を越えて郊外へ発展し、皇帝や貴族の宮殿が各地に建設され、またハプスブルク家の保護下で芸術活動も盛んとなり、17~18世紀を通じて芸術の都としてのウィーンが繁栄することとなった。
「トルコの脅威」から解放されたウィーンは城壁を越えて郊外へ発展し、皇帝や貴族の宮殿が各地に建設され、ハプスブルク家の離宮として[[シェーンブルン宮殿]]も造営された。またハプスブルク家の保護下で芸術活動も盛んとなり、17~18世紀を通じて芸術の都としてのウィーンが繁栄することとなった。
1806年に神聖ローマ帝国が解体するとウィーンはオーストリア帝国の都として引き続きハプスブルク家が支配し、1858年のフランツ・ヨーゼフ1世による都市改造によって、長年に渡ってウィーンを守り続けた城壁は姿を消すこととなった。

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|所在地|オーストリア、ウィーン|
|現存状態|世界文化遺産・ウィーン歴史地区|
|城郭構造|城郭都市|

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