龍岡城 のバックアップソース(No.4)
*現実の城情報 [#information]

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[[四稜郭]]のキャラクリック台詞で言及される城。
江戸時代末期に築かれた田野口藩の陣屋で、信濃佐久郡の東端、上野との国境から西に流れる雨川北岸の河岸段丘上に立地する。[[函館五稜郭>五稜郭]]とともに日本に2つしかない五稜郭の1つで、龍岡城の規模は函館五稜郭の約2分の1となっている。
稜堡式城郭(詳細は[[四稜郭]]を参照)であるため他の近世城郭に見られるような多層式の櫓は無く、「お台所」と呼ばれる単層の2階建ての櫓が天守に相当する。
全体としては内郭、堀、外郭、外部枡形で構成され、内郭は五芒星型の堀の内側にあり稜堡の外縁の石垣と土塁を含んだ部分にあたる。外郭は五芒星型の堀の外側から矢来柵土手、石垣と南側を流れる雨川の土手までの部分で、堀は西側の黒門と南側の穴門の間で途切れており、未完成のままとなっている。
土塁は内郭の外縁に設けられ周囲を星形に囲んでいるが南側から西側にかけては高さが不十分で、石垣は大手門付近では整った布積だが大手門を離れるにつれて乱れている。また稜堡式城郭で重要な砲台は本来なら稜堡の先端五ヶ所に必要だが一ヶ所しか設けられておらず、稜堡式城郭の強みを発揮できず防御上には問題がある。
龍岡城の北側の尾根には戦国時代の田口氏の山城である田口城があり、その間の丘陵斜面からは「佐久石」と呼ばれる火に強い良質な溶結凝灰岩が採れ、龍岡城の石垣にも用いられた。

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龍岡城を築いた田野口藩の歴史は宝永4年(1704年)に始まり、三河大給藩主松平乗真が摂津・河内・丹波に持っていた1万2000石の飛び地に代えて信濃佐久郡田野口に同じ石高の領地を与えられ、大給藩田野口領が成立した。宝永6年(1706年)には田野口陣屋が築かれ、田野口領の拠点となった。
正徳元年(1711年)には大給藩の本拠が奥殿に移されて奥殿藩へと改称され、文久3年(1863年)に藩の本拠が田野口に移り田野口藩へと改称した。当時の藩主である松平乗謨は同年に新陣屋の建設を幕府に申請し、翌年に田野口藩新陣屋の建設が始まり、これが龍岡城と呼ばれるようになる。
新陣屋は上述の通り南から西にかけての堀が未完成だったが慶応3年(1867年)4月に竣工し、翌年5月に田野口藩は龍岡藩へと改称された。その後廃藩置県・版籍奉還後の明治4年(1871年)に廃城とされ、お台所を除いた建築物は民間に払い下げられた。この払い下げとなった建築物のうち、東通用門、薬医門、大広間、書院が佐久市内の各地に移築され現存している。
城跡も五芒星型の堀と土塁、堀内外の石垣、大手門・東通用門・黒門の石垣、稜堡、枡形、お台所などが現存し、昭和9年(1934年)に国の史跡に指定され、平成29年(2017年)には[[続日本100名城>日本100名城#o6df7c09]]に選定された。

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|所在地|長野県佐久市田口|
|現存状態|櫓、土塁、堀、石垣など|
|城郭構造|稜堡式城郭|
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