鷹留城 のバックアップの現在との差分(No.1)

  • 追加された行はこの色です。
  • 削除された行はこの色です。
*現実の城情報 [#information]

//編集前に[[テンプレート/城娘]]の「現実の城情報」をご確認ください。(このコメントは必ず残してください。他のコメントは不要なら削除していいです)

「上州の黄班」で知られる長野業正を出した長野氏が、[[箕輪城]]に移るまで本城としていた城。
鷹留城を築いたとされるのは長野尚業で、長野氏の菩提寺である長年寺が文亀元年(1501年)に建立されたことから、鷹留城はそれ以前の明応年間(1492~1501年)に築かれたとされる。
城が位置する室田の地は長野氏の本領である長野郷に属し、信州街道や草津街道が通る交通の要衝であり、鷹留城は長野氏の本城として機能した。
箕輪城と同じく榛名山から伸びる尾根上に築かれ、東西約400メートル、南北約350メートルの規模で、北側の本郭と南側の南郭をつなぐように細長い曲輪があり、それぞれが堀で仕切られ、周囲には腰曲輪が設けられていた。
長野氏の本城が箕輪城に移ってからも一族が置かれ、箕輪城とは別城一郭の関係として互いに連携して機能し、数多くあった箕輪城の支城のなかでも最重要の支城だった。

#br
#style(class=submenuheader){{{
&color(White,Maroon){続きをクリックで表示};
}}}
#style(class=submenu){{{

弘治3年(1557年)から始まる武田信玄による西上野侵攻に対し、業正は箕輪城を中心に鷹留城などの支城網を駆使し、信玄の攻撃を度々撃退した。
しかし永禄4年(1561年)に業正が死去し長野氏の求心力が低下すると、信玄は西上野への侵攻を本格化させ、国峰城・安中城・[[松井田城]]・[[和田城]]・倉賀野城などの有力支城が次々と信玄の手に落ちていった。
しかし永禄4年(1561年)に業正が死去し長野氏の求心力が低下すると、信玄は西上野への侵攻を本格化させ、[[国峰城]]・安中城・[[松井田城]]・[[和田城]]・倉賀野城などの有力支城が次々と信玄の手に落ちていった。
最有力支城だった鷹留城も永禄9年(1566年)5月に落城したことで箕輪城は孤立、同年9月に落城し箕輪長野氏は滅亡した。
#br
鷹留城はその後すぐに廃城となり、長野氏時代の遺構が改変を受けず良好に残っていることから、武田氏・後北条氏・井伊氏によって改修されることになる箕輪城の、初期の構造・立地を考える上で重要な遺構とされる。
また城下の長年寺には長野氏累代の墓があり、右から業尚、憲業、業氏、業正、業固、業茂、業続の五輪塔が並んでいる。

}}}

|BGCOLOR(#ddd):80|300|c
|所在地|群馬県高崎市下室田町|
|現存状態|堀切、土塁など|
|城郭構造|山城|

*コメント [#comment]
#pcomment(,reply,10,)




ホーム リロード   新規 下位ページ作成 コピー 編集 添付 一覧 最終更新 差分 バックアップ 検索   凍結 名前変更     最終更新のRSS