現存12天守の一つで国の重要文化財に指定されている高知城の別名。 以下、高知城の贈り物イベントの台詞を参照。
この城は、廃城となった大高坂山城の跡地に、山内一豊が築いたものである。 築城当時は河中山城と呼ばれていたが、水害がたびたび起こっていたために、その名が嫌われて高智山城に、さらに高知城と改名された。 この城は、本丸がそのまま残っている全国でただひとつの城であり、四重六階の天守や本丸御殿、黒鉄門(くろがねもん)など、往時を偲ばせる貴重な建物を見ることができる。
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この城を築いた山内一豊は、元々は尾張国の武士だった。 一豊は、はじめに織田信長、次いで羽柴秀吉に仕えたが、ある女性を娶ってから運が開けたとされている。 その女性は、見性院(けんしょういん)あるいは「千代」と呼ばれていた。*1 千代は、結婚の持参金だった黄金十両で貧しかった夫の代わりに馬を買い、その馬が信長の目にとまって、一豊はひきたてられたのだという。*2 他にも、城の築城資金として自分の髪を売ったなどという逸話も残されている。 こうして千代が影に日向に夫を支えた結果、一豊は土佐一国を治める国持ち大名へと出世したのである。
妻の千代の功績が取り上げられがちな山内一豊だが、もちろん一豊自身も優秀な武将であった。 一豊は、元亀元年(1570年)に姉川の戦いで初陣し、3年後の刀根坂(とねざか)の戦いでは、朝倉方の武将と一騎打ちして、見事討ち果たしている。 秀吉麾下となってからは、賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いや小牧・長久手の戦いで活躍し、秀吉政権の中核として重きをなしていった。 その一豊の運命を変えたのが、小山評定での一言であった。 秀吉の死後、徳川家康は上杉討伐のため軍勢を小山まで進めたが、一豊もそれに従っていた。 その評議の席上で、一豊は当時自分の居城だった掛川城を家康に差し出すと宣言した。 この一言が、徳川と豊臣どちらにつくべきか悩んでいた諸将の背中を押す効果をもたらし、真田氏などを除くほぼ全員が徳川に味方することとなったのだ。 家康はこれを大いに喜んで、関ヶ原の戦いの後、一豊に土佐一国を与えるに至ったのである。*3
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