鳴海城 のバックアップ差分(No.1)
*現実の城情報 [#information] //編集前に[[テンプレート/城娘]]の「現実の城情報」をご確認ください。(このコメントは必ず残してください。他のコメントは不要なら削除していいです) 鳴海城(なるみじょう)は、天文~永禄期にかけて尾張の勝幡織田氏と駿河の今川氏の最前線となった城である。根古屋城とも呼ばれる。 古くは現在の天白川と扇川の合流点付近から海が広がっており、鳴海城は海に面した丘陵に築かれた守りの城であった。 歴史は古いとされ、応永年間の14世紀末頃に安原宗範が当地にあった鳴海神社を移設の上築いたとされるが、この城は宗範の死後廃城になったと考えられている。 その後、16世紀に入り、勝幡織田信秀が当地の支配を固めると、三河との国境の守りを見据え再建したとみられ、笠寺の国人山口教継が城主となって入った。 #br #style(class=submenuheader){{{ &color(White,Maroon){続きをクリックで表示}; }}} #style(class=submenu){{{ 天文年間末期、勝幡織田氏において信秀が亡くなり信長がその跡を継ぐと、信長を見限った教継は息子教吉とともに今川氏に寝返り、さらには近隣の大高城や沓掛城も今川氏に寝返らせた。 しかし、間もなく教継・教吉は今川義元によって切腹に追い込まれ、かわって今川譜代の岡部元信が城主となった。これは義元が最前線の重要拠点を外様に任せるのを嫌ったためであるという。 この後鳴海城は織田と今川の最前線となりにらみ合いが続いたが、永禄2年(1559年)、織田信長は今川勢に圧力をかけるため、鳴海城の周囲に丹下砦や善照寺砦、中村砦を築いた。 城主岡部元信は頑強に抵抗し織田方の攻撃を跳ね返していたが、桶狭間の戦いによって今川義元が討たれると元信は義元の首級と引き換えに鳴海城を開城し、当地を去った。 その後は佐久間信盛・信栄親子が城主を務めた後に廃城となったとされているが、その時期には諸説あり、早いものでは天正3年(1575年)、遅いものでは天正18年(1590年)となっている。 #br 城跡は現在の城跡公園を西端に、丘陵に沿って東に広がっていたと考えられている。 遺構は多くないものの、現在でも公園内の地形に空堀や土塁であったと見られる地形があるほか、城跡公園北の東福院には鳴海城の廃材を用いて作られたという門が存在している。 }}} |BGCOLOR(#ddd):100|200|c |所在地|愛知県名古屋市緑区鳴海町城| |現存状態|土塁、空堀| |城郭構造|平山城| *コメント [#comment] #pcomment(,reply,10,) |
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