高水寺城 のバックアップの現在との差分(No.1)
現実の城情報足利氏の別流として他の一門とは別格の家格を誇り、室町幕府三管領家の筆頭でもある斯波氏の一族、奥州斯波氏の本拠地。 戦国時代には斯波詮高が三戸南部氏と戦って領土を広げ、次男の詮貞を雫石城に、三男の詮義を猪去城を入れてそれぞれ「雫石御所」「猪去御所」と尊称され、高水寺斯波氏の全盛期を築いた。 戦国時代には斯波詮高が三戸南部氏と戦って領土を広げ、次男の詮貞を雫石城に、三男の詮義を猪去城を入れてそれぞれ「雫石御所」「猪去御所」と尊称され、高水寺斯波氏の全盛期を築いた。この頃には平地の城だけでは守りに不安があったことから郡山の丘陵上に城を築いて本城とした。 続きをクリックで表示 この頃には平地の城だけでは守りに不安があったことから郡山の丘陵上に城を築いて本城とした。 最高所の本丸を中心に南側には二の丸にあたる若殿屋敷が、東側には姫屋敷や右京屋敷などの曲輪が、西側斜面には多数の腰曲輪が設けられ、各曲輪間は二重堀・三重堀によって守られ、城の西側には西御殿と呼ばれる別郭が置かれた。 三戸南部氏の最盛期を築いた南部晴政が南下するようになると高水寺斯波氏は圧迫され、斯波詮真は南部氏の一族である九戸政実の弟・弥五兵衛を娘婿として迎え入れた。 弥五兵衛は高田吉兵衛康実と改名し、高水寺城南西の出丸である吉兵衛館に入ったが、詮真の跡を継いだ詮直(詮元)と対立し、天正14年(1586年)に南部信直の下へ出奔した。 天正16年(1588年)には岩清水右京義教らが康実に内通して生じた混乱に乗じ、信直が高水寺城に攻め寄せたため詮直は城を捨て逃亡、高水寺斯波氏は没落した。 信直は高水寺城を郡山城と改称し、高田吉兵衛改め中野修理康実を城代として入れ、以後郡山城は紫波郡統治の忠臣となった。 信直は高水寺城を郡山城と改称し、高田吉兵衛改め中野修理康実を城代として入れ、以後郡山城は紫波郡統治の中心となった。 南部氏はやがて盛岡城を新たな居城とするが、度々起こった水害によって築城工事は難航し、郡山城は九戸城(福岡城)とともに一時的な居城として用いられた。 盛岡城が完成し居城が移されたのちの寛文7年(1667年)に郡山城は廃城となり、その資材は盛岡城に転用されたという。 盛岡城が完成し居城が移されたのちの寛文7年(1667年)に郡山城は廃城となり、その資材は延宝2年(1674年)からの盛岡城本丸再建に転用されたという。
城郭構造(クリックで表示) 城郭構造高水寺城は岩手県紫波郡紫波町郡山の北側に位置する城山に築かれ、盛岡藩南部氏時代の郡山城では城山の範囲に留まるが、斯波氏時代は西側に連なる向山などの丘陵を含む広大な範囲を城域としていた。 城山の東側は北上川が流れ、北と南には平地が開けており、北西約2.5キロメートルの地点には前九年の役で源頼義・義家父子が、奥州合戦で源頼朝が着陣したとされる陣ヶ岡がある。 最高所の本丸を中心に南側には二の丸にあたる若殿屋敷が、東側には姫屋敷や右京屋敷などの曲輪が、西側斜面には多数の腰曲輪や帯曲輪が雛壇状に設けられ、各曲輪間は二重堀・三重堀によって守られ、城の西側には西御殿と呼ばれる別郭が置かれた。 城山から南西には堀切を隔てて向山、吉兵衛館が連郭式に続いている。なお、山上の右京屋敷は斯波氏家臣の岩清水右京の、向山は同じく家臣の向山大和の、吉兵衛館は九戸氏から入婿した高田吉兵衛康実の屋敷とされる。 さらに西側には戸部の御所とされる独立した曲輪があり、南東側に空堀が残っている。ただし地形から御所とするには狭小であり、高水寺城西側の出城のような役割を担っていたと考えられている。 吉兵衛館から北に約200メートルにある台地は、北西に腰曲輪を設けた広い曲輪となっており、ここも斯波氏一門の居館跡だったと思われる。 城山の北西には斯波氏時代に遡るとされる上町という町場があり、江戸時代には盛岡藩の郡山御給人の屋敷街が形成された。 城山北側には高水寺観世音のある走湯神社があり、そこから低地を挟んで西側、戸部の御所の北東側や南東側には寺院が集中している。 このように高水寺城は城山を中心に一族や重臣の居館や曲輪が連郭式に連なり、周囲には城下町や由緒ある寺社が存在するという、守護所を思わせる景観を形成していたと考えられる。 コメント |
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