高崎山城 のバックアップ差分(No.2)

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十四世紀の南北朝時代に、豊後国の守護・大友氏によって築かれた。
平安時代末期に安倍宗任によって築城されたという。
鎌倉時代初めに大友氏が豊後に下向した際には、在地武士の大神氏一族の大津留(大鶴)氏がこの城を拠点に激しく抵抗したとされる。

十四世紀の南北朝時代に、豊後国の守護・大友氏によって改築された。

記録に「高崎」の戦いが最初にみえるのは天平三年(貞和四・1348)のことです。
この後、南北朝時代を通じて北朝方(大友氏)の拠点となり、南朝方(肥後の菊池氏が中心)の激しい攻撃の的となりました。
特に建徳二年(応安四・1371)には菊池武光らの軍勢は数か月にわたって高崎城を攻め、戦いは百余度に及んだといいます。

以後、高崎城には永正十三年(1516)に、朽網親満一党が大友氏に反して籠城、また天正十四年(1586)薩摩の島津軍の侵入に押された大友義統(宗麟の子)が立て籠もったりしましたが、大友氏の豊後追放とともに廃城となりました(『現地説明板』)。

標高628mの高崎山が城跡で、急峻な山容である。曲輪・土塁・烽火台石垣等が残る
現在では高崎山自然動物園として猿山になる。



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