障子ヶ岳城 のバックアップソース(No.5)
障子ヶ岳城(しょうじがたけじょう)
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城跡は京都郡と田川郡の群境、標高427メートルの障子岳山頂にあり、本丸、二の丸、北の丸、馬場、空堀、土塁が現存し、城郭構造は典型的な連郭式山城と推測される。
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''『名城にして宿舎、城主が次々と変わってゆく豊前の山城』''
延元元・建武三(1336)年、足利尊氏の一族、足利統氏が豊前の守りとして築城し、居城した。正平二三応安元(1368)年、千葉上総介光胤が統氏を討ち、千葉氏の居城とした。
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時が経ち応永六(1399)年正月元旦、城主千葉上総介高胤は元旦の慶賀として一族老臣を場内に集め祝いの宴を開いていた。
ところが突如として大内盛見率いる大内の大軍が城の南北の二手より攻め登ってきた。当時、北九州地方は大雪が降り積もっていたため攻城軍は雪に足をとられ大変難儀した。しかし、鬨の声挙げ二手より攻め登ってきたため、場内は不意を突かれ上へ下への大混乱となった。
老臣''松山民部大輔''が城主高胤に「敵は本丸に攻め入ったためこれ以上防げません。殿、早く城を逃れ給え」と促したため、高胤は30余りの供侍をつれ、西の門より落ち延びた。城は落ちてしまうが、妻子や嫡男千菊丸は、太田蔵人に守られて筑前に逃れた。その後、大内氏の抱えとなったり再び千葉氏を再興し当主となったりと状況は落ち着かずにいた。
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天正十五(1587)年、秀吉の九州平定の折、秀吉の宿舎となったと伝えられる。このとき、''小早川隆景''の持城となったのだが、天正十七年、豊前の名城と言われた当城もついには廃城・破却の末路を辿ることとなる。
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地元の人間は校歌のおかげで「障子岳」の存在は知っていても、そこに城があったことを知る者は少ない。
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|所在地|福岡県京都郡みやこ町勝山(障子ヶ岳山頂)|
|現存状態|本丸跡、二の丸跡、北の丸跡、馬屋跡、空堀、土塁|
|城郭構造|連郭式山城|

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