障子ヶ岳城 のバックアップの現在との差分(No.1)


城跡は京都郡と田川郡の群境、標高427メートルの障子岳山頂にある。

延元元・建武三(1336)年、足利尊氏の一族、足利統氏が豊前の守りとして築城し、居城した。

正平二三応安元(1368)年、千葉上総介光胤が統氏を討ち、千葉氏の居城とした。

現実の城情報 Edit


障子ヶ岳城(しょうじがたけじょう)の城跡は京都郡と田川郡の群境、標高427メートルの障子岳山頂にあり、本丸、二の丸、北の丸、馬場、空堀、土塁が現存し、城郭構造は連郭式山城の典型と推測される。

なお、みやこ町勝山(旧勝山町)の人間は校歌のおかげで「障子岳」の存在は知っていても、そこに城があったことを知る者は少ない。



『名城にして宿舎、城主が次々と変わってゆく豊前の山城』


天正十五(1587)年、秀吉の九州平定の折、秀吉の宿舎となったと伝えられる。

このとき、小早川隆景の持城となったのだが、天正十七年、豊前の名城と言われた当城もついには廃城・破却の末路を辿ることとなる。



地元の人間は校歌のおかげで「障子岳」の存在は知っていても、そこに城があったことを知る者は少ない。
所在地福岡県京都郡みやこ町勝山(障子ヶ岳山頂)
現存状態本丸跡、二の丸跡、北の丸跡、馬屋跡、空堀、土塁
城郭構造連郭式山城

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