院庄館 のバックアップの現在との差分(No.1)
現実の城情報津山盆地の南西に建てられた、美作守護職の居館と推定される施設。
後醍醐天皇と児島高徳(クリックで表示) 院庄館は太平記に記されたこの2人の伝承で有名である。 鎌倉時代の末期、後醍醐天皇は討幕を目指し京都の笠置山で挙兵したが、あえなく幕府軍に捕縛され隠岐へと島流しにされることとなった。 鎌倉時代の末期、後醍醐天皇は討幕を目指し京都の笠置山で挙兵したが、あえなく幕府軍に捕縛され隠岐へと島流しにされることとなった。 一方、朝廷政治に幕府が干渉することに反感を抱いていた児島高徳は、隠岐へ向かう道中の後醍醐天皇を幕府から奪還することを画策した。 児島高徳は兵を連れて播磨と備前の国境にある船坂峠で護送団を待ち伏せしていたが、護送団側がルートを誤ったためいつまでたっても現れず、気付いた時にはすでに通り過ぎてしまっていた。 慌てて追いかけたものの、既に護送団は院庄館付近に達しており、完全な計画失敗により児島高徳以外は散り散りになってしまった。 そうして院庄館に一人辿り着いた児島高徳は、警備をかいくぐり天皇の宿舎付近まで近づいたが、それまでとは段違いの警護にあえなく断念した。 代わりに、近くの桜の木に後醍醐天皇へのメッセージとして「天莫空勾践 時非無范蠡」という漢詩を刻んで撤退した。 中国の春秋時代の故事にあやかったもので、後醍醐天皇を越王勾践に例え、時が来れば范蠡のような中心が現れるという事を言っている。 中国の春秋時代の故事にあやかったもので、後醍醐天皇を越王勾践に例え、時が来れば范蠡のような忠臣が現れるという事を言っている。 このメッセージ通り、翌年には名和長高により後醍醐天皇は隠岐から脱出し、船上山で挙兵した。 名古屋山三郎と井戸宇右衛門(クリックで表示) 森家家臣団の中には名古屋山三郎と井戸宇右衛門という犬猿の仲の重臣2人がいた。 そうして森家が美作に移ってきた後に事件が起きた。 事件後、院庄館付近の街道を挟んで北側に山三郎、南側に宇右衛門を埋葬し塚を作り、上に松を植えて葬った。 コメント |
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