院庄館 のバックアップソース(No.1)
*現実の城情報 [#information]

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津山盆地の南西に建てられた、美作守護職の居館と推定される施設。
森忠政により[[津山城]]が築城されるまでは美作の政治的中心地で、津山城築城主の森忠政も美作に来た当初は院庄館に居住していた。
また、太平記ではこの地で隠岐に流される道中だった後醍醐天皇を児島高徳が救い出そうとしたことで有名である。
この話に基づき、跡地には現在作楽神社が建てられている。

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//#style(class=submenuheader){{
//&color(White,Maroon){続きをクリックで表示};
//}}
//#style(class=submenu){{

//(本文の続きを入力してください)

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|BGCOLOR(#ddd):80|300|c
|所在地|岡山県津山市神戸|
|現存状態|土塁、跡地に作楽神社|
|城郭構造|平城|

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//題名を付けて説明する場合は、以下の方法で必ず折り畳んでください。
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#style(class=submenuheader){{
&color(White,Maroon){後醍醐天皇と児島高徳(クリックで表示)};
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#style(class=submenu){{

//Edit番号不要、またはEdit番号についてよく分からない場合は次行はコメントアウトしたままにしておいて下さい。
//***(題名を入力してください)

院庄館は太平記に記されたこの2人の伝承で有名である。
鎌倉時代の末期、後醍醐天皇は討幕を目指し京都の笠置山で挙兵したが、あえなく幕府軍に捕縛され隠岐へと島流しにされることとなった。
一方、朝廷政治に幕府が干渉することに反感を抱いていた児島高徳は、隠岐へ向かう道中の後醍醐天皇を幕府から奪還することを画策した。
児島高徳は兵を連れて播磨と備前の国境にある船坂峠で護送団を待ち伏せしていたが、護送団側がルートを誤ったためいつまでたっても現れず、気付いた時にはすでに通り過ぎてしまっていた。
慌てて追いかけたものの、既に護送団は院庄館付近に達しており、完全な計画失敗により児島高徳以外は散り散りになってしまった。
そうして院庄館に一人辿り着いた児島高徳は、警備をかいくぐり天皇の宿舎付近まで近づいたが、それまでとは段違いの警護にあえなく断念した。
代わりに、近くの桜の木に後醍醐天皇へのメッセージとして「天莫空勾践 時非無范蠡」という漢詩を刻んで撤退した。
中国の春秋時代の故事にあやかったもので、後醍醐天皇を越王勾践に例え、時が来れば范蠡のような中心が現れるという事を言っている。
このメッセージ通り、翌年には名和長高により後醍醐天皇は隠岐から脱出し、[[船上山>船上山城]]で挙兵した。

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}}

#style(class=submenuheader){{
&color(White,Maroon){名古屋山三郎と井戸宇右衛門(クリックで表示)};
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#style(class=submenu){{

//Edit番号不要、またはEdit番号についてよく分からない場合は次行はコメントアウトしたままにしておいて下さい。
//***(題名を入力してください)

//森忠政が美作に移り築城を考えたとき、この院庄館を改修して使う案と[[津山城]]を新たに築城するという2案でいざこざがあった。
森家家臣団の中には名古屋山三郎と井戸宇右衛門という犬猿の仲の重臣2人がいた。
宇右衛門は兄の森長可の頃から仕える武将で、忠政の時代に重臣となり信濃の[[葛尾城]]の城代を任されていた。
また関ヶ原の第二次上田合戦の際には忠政から単独で真田への牽制役を命じられ、真田軍の北の備えである地蔵峠付近で争うなど剛の者であった。
一方で、山三郎は元は蒲生氏郷の小姓で、氏郷の死去後に浪人したのち妹の嫁ぎ先の忠政の家臣として仕え始めた。
山三郎は傾奇者で、見目麗しく、和歌や茶道などの文化に深く通じ、他の妹も森家の重臣と結婚しており、忠政からも気に入られたため家内で大きな発言力を持っていた。
それを快く思わなかった宇右衛門は山三郎と言い争いをたびたび起こしたり、山三郎を重用する忠政への奉公を怠るなど不満感をあらわにし、忠政との関係をも悪化させていた。
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そうして森家が美作に移ってきた後に事件が起きた。
忠政は美作に新たな城を築城することを考えたが、その建設地点について宇右衛門と対立してしまった。
ついには忠政が院庄への築城を強硬で指示し、さらには宇右衛門の誅殺を企図するに至った。
忠政が宇右衛門にあてる刺客を選ぶにあたり、山三郎が再三にわたりその役を請ってきた。
同じく忠政は再三にわたり拒否したが、最終的には忠政が折れて山三郎に誅殺を命じた。
そうして後日、建設現場の院庄館で宇右衛門に出くわした山三郎は彼に刃を向け、宇右衛門もこれに応じ刃傷沙汰となった。
結果、この二人の果し合いは歴戦の雄である宇右衛門が山三郎を一刀両断にして決着したが、同席した他の家臣も宇右衛門の誅殺を命じられており、結局は宇右衛門も切り伏せられてしまった。
この事件の波紋は思ったより大きく、信濃を引き上げ美作に向かっていた森氏筆頭家老の林為忠が激怒して出奔し、建設場所も院庄ではなく鶴山に変更となり、これがのちの[[津山城]]になった。
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事件後、院庄館付近の街道を挟んで北側に山三郎、南側に宇右衛門を埋葬し塚を作り、上に松を植えて葬った。
しかしながら、この2本の松の間を抜ける通行人に対してたびたび奇怪な事が起きたため、街道を塚の北側に回し、現在は田んぼの中にある。
不思議なことに片方の松の勢いが強くなるともう片方が弱るとのことで、死んでも未だに二人が喧嘩しているようだという事で、にらみ合いの松と呼ばれている。

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*コメント [#comment]
#pcomment(,reply,10,)



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