別名を門司関城という。城の規模は175メートルの古城山さらにはその一帯とされ、幕府が一国一城令を布く元和元年(1615年)までの251年間、豊前最北端を守っていた。 関門海峡を隔て、本州の最西端である下関は目と鼻の先である。海峡を越えれば長門国、ともに下関に築城され門司城を支えた鍋城や火の山城がある。 築城年は定かでなく、目的という目的も不明確であるが、一説によると当初、門司関(公的な交通安全安定を担う機関)を警備する機関であったのではないかと言われている。 門司城が文献上で初めて顔を出すのは正平19/貞治3年(1364年)の下総親尚軍忠状で「昨年七月十九日真夜中に門司関城に取り上がり、山城要害を築城中であったが、同二十一日に菊池氏の代官鞍懸中務丞や宮方についた門司氏一族が攻め寄せた」との記述が残る。
最新の10件を表示しています。 コメントページを参照 画像を非表示
最新の10件を表示しています。 コメントページを参照 画像を非表示