鈴岡城 のバックアップの現在との差分(No.2)
現実の城情報小笠原氏は、貞宗が足利尊氏に仕えた功績により信濃守護を任されていたが、長秀の時代に、国人衆の反感から起こった大塔合戦に敗北をする。 小笠原氏は、応永8年(1401年)に信濃守護職を取り上げられ、応永9年(1402年)に信濃は室町幕府の直轄領となった。 嘉慶2年(1388年)に元服した笠原政康は、応永12年(1405年)に長秀から家督と小笠原氏の所領を譲られ、信濃守護大名となる。 政康の死後、小笠原氏は府中(深志)小笠原氏と松尾小笠原氏と鈴岡小笠原氏に分裂し対立することとなった。 鈴岡城は、鈴岡小笠原氏の居城として、現在の長野県飯田市に築かれた。 天文23年(1554年)武田信玄の伊那侵攻。 この際、松尾小笠原氏は活躍を見せるも、鈴岡小笠原氏は敗北を喫し、鈴岡城は落城してしまう。 甲斐源氏の加賀美氏の流れをくむ名族で、弓馬・礼法の流派として名高い小笠原流でも知られる小笠原氏の嫡流、信濃小笠原氏のうち鈴岡小笠原氏が居城とした。 北側を毛賀沢川、南側を大井川が流れ、背後には高さ約40メートルにもなる段丘崖によって守られる天然の要害で、主郭から尾根続きとなっている西側に曲輪が連なっていた。 主郭を守る二の丸は特に防御が堅い造りとなっており、大規模な堀や土塁で囲まれ、周囲の曲輪とは通路で連結されており、攻防の要となる構造だった。堀は南側で堀底がW字型となり、障子堀だった可能性もある。 鈴岡城の北には毛賀沢川が流れ、この川を挟んだ対岸には同族の松尾小笠原氏が居城とした松尾城があり、現在は遊歩道でつながっている。 続きをクリックで表示 #style(class=submenu){{ 小笠原氏は、元弘4年・建武元年(1334年)に小笠原貞宗が足利尊氏に仕えた功績により信濃守護を任され、守護所として松本平に井川館を築いた。 小笠原長秀の時代の応永7年(1400年)、小笠原氏は国人衆の反感から起こった大塔合戦に敗北し、応永8年(1401年)に信濃守護職を取り上げられ、応永9年(1402年)には信濃が室町幕府の直轄領となった。 こうして一時没落した小笠原氏だったが、嘉慶2年(1388年)に元服していた小笠原政康が応永12年(1405年)に兄の長秀から家督と小笠原氏の所領を譲られ、信濃守護大名となる。政康は永享12年(1440年)の結城合戦で武功を挙げ、これにより小笠原氏は再興することとなる。 政康の死後、小笠原氏の惣領と信濃守護職は子の宗康が継いだが、これに政康の甥にあたる持長が兵を挙げ宗康は討死した。この内紛のなかで持長の系統が府中(深志)小笠原氏、宗康の弟・光康の系統が松尾小笠原氏、宗康の子・政秀の系統が鈴岡小笠原氏となり、小笠原氏は分裂し対立することとなった。 鈴岡城が用いられたのはこの時期のことと考えられ、当時幼少だった政秀が光康を頼った後に移ったとされ、以後鈴岡城は鈴岡小笠原氏の居城なった。 政秀は府中小笠原氏の長朝を追放し、さらに松尾小笠原氏も攻撃するなど攻勢に出たが、松尾小笠原氏の定基によって明応2年(1493年)に子の長貞ともども松尾城で暗殺され、鈴岡小笠原氏は没落した。 松尾小笠原氏もまた、天文3年(1534年)に府中小笠原氏の長棟によって甲斐に追放され、鈴岡城には長棟の子の信定が入った。 天文23年(1554年)の武田信玄による伊那侵攻の際、鈴岡城は甲斐に逃れていた松尾小笠原氏の信貴に攻撃されて鈴岡小笠原氏は敗北を喫し、鈴岡城は落城してしまう。 鈴岡城がいつ頃廃城になったかは明らかでないが、天正15年(1587年)にこの地域を取りまとめていた下条氏が没落した頃と考えられ、遅くとも松尾小笠原氏が関東に移った天正18年(1590年)頃とされる。 }}
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