日本三大平城の一つである岡山城の別名。 以下、岡山城の贈り物イベントでの台詞を参照。
この城の天守には、黒漆喰の下見板が使われているため、カラスになぞらえて「烏城(うじょう)」とも呼ばれる。 また、天守には金箔瓦も使われており、これが金烏城と呼ばれる由来だと思われる。 おそらく城主の宇喜多秀家が、天下人秀吉の養子だったことも関係しているのであろう。
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秀家は五大老の一人として関ヶ原では西軍に参加し、豊臣氏に忠義を貫いた。 だが、秀家は関ヶ原の敗戦で八丈島に流刑となり、宇喜多氏は断絶したのであった。 忠節の心は厚くとも、父親のような政治力を受け継がなかったのである。
関ヶ原の戦いの後、この城には取り潰しとなった宇喜多氏の代わりに小早川秀秋が移封されて参った。 関ヶ原の最終局面で石田三成を裏切り*1、徳川家康に味方して戦いの帰趨(きすう)を決定したいわくつきの人物である。 秀秋は入城後、三の丸の外側に掘りを作り、曲輪の整備を行って城下町の拡大を図った。 この外堀工事には農民だけでなく武士も動員され、わずか20日で完成したため廿日堀(はつかぼり)と呼ばれている。 こうして城下の発展に力を尽くした秀秋だったが、入城後わずか2年で急死し、小早川家は無嗣(むし)断絶となってしまう。 これは三成の盟友だった大谷吉継による、秀秋の裏切りに対する祟りだとも言われているが、真相は闇の中である。 結局、この城は池田輝政の子である忠継に与えられ、幕末まで治められるのであった。
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