金沢柵 のバックアップソース(No.1)
*現実の城情報 [#information]

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出羽の豪族である清原氏の本拠地とされる。後三年の役において寛治元年(1087年)に起こった金沢柵の戦いでは清原武衡・家衡が沼柵から移って籠城したが、清原清衡・源義家の兵糧攻めにより落城した。
合戦後の金沢柵については不明なことが多いが、金沢城跡から北側の対岸の尾根に多くの経塚があり、そのなかに仁安3年(1168年)に金兼宗などの名が確認できる。
金沢柵の故地としては金沢城跡が言い伝えられてきたが、平成17年(2005年)に後三年の役関連遺跡の調査が始まり、清原光頼・頼遠の居館である[[大鳥井山]]遺跡で大規模な遺構が発見され、その後金沢周辺の調査で金沢城の前身とされる陣館遺跡が大鳥井山遺跡と類似していることが明らかとなり、発掘調査が行われた。
発掘調査の結果、陣館遺跡では大鳥井山遺跡と同規模の四面庇掘立柱建物跡が発見され、清原氏時代の土器や鉄鍋も出土した。これにより陣館遺跡は清原氏に関わる遺跡として、平成29年(2017年)6月16日、大鳥井山遺跡に追加指定し「大鳥井山遺跡附陣館遺跡」に変更するよう答申された。
しかし陣館遺跡を金沢柵として考えた場合、戦いの痕跡が確認されないことや約3万5000平方メートルでは狭すぎるという指摘もあり、改めて金沢城跡から出土した遺物を確認したところ本丸から出土した清原氏時代の白磁碗があったことにより、再び金沢城の調査が行われることとなった。

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金沢城については、『津軽一統志』付巻に初代・2代城主に金沢右京亮の名が見え、『国立史料館蔵津軽家文書』では永享6年(1434年)文書に初代家光、宝徳3年(1451年)文書に2代家信が記されていることから、金沢右京亮はこれにあたると考えられる。
また『小野寺正系図』には南部三郎(金沢右京亮)の配下だった小野寺泰道が寛正6年(1465年)から応仁2年(1468年)の戦いで南部氏を破り、泰道の子・道秀が金沢城主になったと記されている。
小野寺氏の本拠地は16世紀前半には沼舘城となっているため金沢の様相は不明となるが、『奥羽永慶軍記』の弘治元年(1555年)には小野寺氏の当主稙道を敗死させた人物として、横手光盛とともに金澤八幡神社の衆徒である金乗坊がいる。
16世紀末の金沢は六郷氏の所領となっており、『奥羽永慶軍記』には六郷正乗の弟・金沢権太郎の名が確認できる。
関ヶ原の戦い後に佐竹氏が出羽に入ったが、金沢城には後三年の役後に源義家が創建した金澤八幡神社があり、義家の弟である新羅三郎義光の末裔である佐竹氏の尊崇が特に篤いこともあって金沢城を佐竹氏の居城とすることも考えられたが、最終的には[[久保田城]]を居城とし金沢城は元和8年(1622年)に廃城となった。
その後も佐竹氏は金澤八幡神社を数十回にわたって修改築を繰り返すなど整備に努め、平成元年(1989年)に金澤八幡宮と改称して現在に至っている。

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|所在地|秋田県横手市金沢中野|
|現存状態|堀、土塁など|
|城郭構造|山城|

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**城郭構造 [#p3a3a033]

清原氏時代の金沢柵は、陣館遺跡は金沢柵内の寺院跡であると想定され、金沢城に柵の本体があると考えられるが詳細は不明で、今後の発掘調査が待たれる。
金沢城は本丸、二の丸、北の丸、西の丸(安本館)からなる多郭構造の山城で、曲輪間の比高差が大きく、土塁や多重堀切、竪堀などが非常に発達している戦国時代の山城の姿を残している。
そのなかでも北側に位置する本丸、二の丸、北の丸は自然地形が大きく改変されており、北側に向けた防御の強化を図っていたことがわかる。一方で西の丸は自然地形を利用した土塁や堀となっており、早急な防御が必要なかったため古い形態が残っているものと考えられる。
北側でも本丸東尾根や二の丸北西尾根には粗野な造りの曲輪や散発的な堀切があり、本丸南東尾根には内部に竪穴建物跡と思われる窪みがあり、その外側は空堀が囲んでいるのみで、城内でも最も古い時代のものと考えられる。
陣館遺跡付近、金沢城西麓に広がる段状地形も古い時代の様相を示しており、金沢城における金沢柵はこれらの古い時代の場所の発掘調査によって明らかになると期待されている。

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