金山城 のバックアップ差分(No.2)

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*現実の城情報 [#information]
金山城は[[日本100名城]]、[[関東七名城>日本100名城#m8c02b5c]]の一つで、新田金山城、太田金山城とも呼ばれる。

文明元年(1469年)に岩松家純が築いた、[[日本100名城]]、[[関東七名城>日本100名城#m8c02b5c]]に数えられる城。新田金山城、太田金山城とも呼ばれる。
岩松氏はやがて横瀬氏に実権を握られるようになり、永禄3年(1560年)に横瀬成繁は金山城主の岩松守純を追放して自ら城主となった。
成繁の子国繁がは新田氏の故地にちなみ「由良」と改姓し、戦国大名としての地位を固めた。当時の関東は北条氏・武田氏・上杉氏による三つ巴の争乱が繰り広げられ、由良氏は度々同盟先を変えて巧みに立ち回った。
しかし金山城は天正12年(1584年)に北条氏に攻められ、明け渡された。北条氏時代は長くは続かず、天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原征伐によって金山城は廃城となった。 
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【城郭構造】
金山城は関東平野に突き出るような独立丘陵に築かれ、足尾山系の最南端に位置し、平野部から山地への地形変換点にあたる。南には利根川が東流し、北には渡良瀬川が南東へ流れている。
縄張は金山山頂部を中心に、樹根状に伸びる尾根や斜面・谷などを巧みに取り込み、全体で300ヘクタールにおよぶ。山頂部の標高は239メートルで、比高は約270メートルとなっている。
この地域には利根川の渡河点があることから、上野・下野・武蔵三国間を結ぶ陸路の交差点となっており、律令時代から内陸交通の要衝だった。金山丘陵の北には東山道が東西に通り、西側には新田駅路から分岐して武蔵国府に向かう東山道武蔵路が通っていた。
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金山山頂部に築かれているのは実城を中心とする中核的な曲輪群で、枸橘沢(大手谷)の谷頭を土塁でせき止め、日ノ池を設け、実城、二の丸、三の丸、御台所曲輪、南曲輪が日ノ池を中心にコの字型に配置されている。
山頂から樹根状に伸びる尾根には、実城域の曲輪群を守るように堀切や雛壇状の曲輪が設けられている。
最頂部の実城の西には堀切があり、裏馬場に抜けると実城北側の石垣が残っている。この石垣は堀切東側(実城西側)法面に残る石垣と出隅をなす。
一方御台所曲輪と南曲輪の南斜面には帯曲輪が三段に設けられている。最下段の帯曲輪は東西約180メートルと長く、法面は石垣となっている。そのほぼ中央に「南木戸」と呼ばれる虎口があり内枡形の構造で、虎口の正面東側には延長約80メートルの石垣が残っている。
その先には東櫓台が突き出るように存在し、南には急峻な谷が入り込んでいる。対岸には南の大八王子山に続く尾根が伸びており、石積み土塁を伴う延長約80メートルの竪堀が大八王子山の頂部付近まで築かれている。
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大手虎口は谷地形の底の部分に造られており、最も低い面に大手通路が通っている。通路の北側には下段・上段・三の丸、南側には下段・上段・南曲輪と、両側ともに三段の曲輪が大手通路を見下ろすように配置され、厳重な構えとなっている。
大手通路は両側に曲輪の石垣が壁となって全長約35メートル伸び、東端で土塁に突き当たる。幅1.5~1.8メートルの石敷きが施され、登り坂の有段通路で、通路の中ほどで幅を絞り込みカーブもつけられているため遠近感がつかみ難い。
大手通路の東端で土塁に突き当たった通路は南北に分かれ、土塁の両端には虎口がある。北側には三の丸から壇状構築の土塁が並行して食い違いに伸びており、この間を鍵の手に通路が通る。
一方南に折れた通路は、南曲輪北法面石垣に突き当たって左に折れ、日ノ池のある水の手曲輪に出て、日ノ池を四分の三周回って御台所曲輪に入る。
大手虎口の土塁は東端と西端に築かれており、石垣を伴い壇状構築されているのが特徴。特に東端の二つの土塁のうち大きい方は全長24メートルの巨大な土塁で、五つ壇を形成しており、最上部との高低差は8メートル以上ある。もう片方の土塁は谷を塞ぎ、全長22.5メートルで基底幅6メートルあり、二段構造となっている。
この土塁の石垣は発掘調査によって計五回もの改修を受けたことが明らかになった。石垣構築技術にも特徴があり、金山城内では石垣下段部の石を15~20センチメートル手前に突き出して積む技法(アゴ止め石)が各所で確認され、石垣構築技術の画期として注目されている。
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金山山頂から南西に伸びる谷の谷頭には日ノ池と呼ばれる池があり、標高215メートルにあるにもかかわらず、冬でも水が涸れることはない。9世紀後半の平安時代には水に関わる民間信仰がある聖なる池でもあった。土製の馬形(土馬)が出土していることから、雨乞い信仰であったと考えられる。
金山城はこの信仰の池を実城域の中心に据えて縄張したことになり、径16.5×17.5メートルの不正円形の石組みされた池の周りに、石敷平坦面とさらに石垣が周囲を巡る二段構造となっている。
また石敷きされたテラス面の北東部と南西部には石垣の井戸跡があり、さらに南西部には石階段、南東部には堀切の堀底道が接続している。
大手虎口の北西側、標高205メートルの地点には月ノ池があり、北側には三の丸下大堀切がつながっている。月ノ池は径6.8メートル×7メートルの不正円形で、日ノ池と同じく二段構造となっている。
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実城の北尾根・観音山には北城があり、『松陰私語』の「中城」、『永禄日記』の「坂中」と考えられ、また宇津木下総守が在番となった北曲輪にあたる。
北城は三段の曲輪で構成され、これに帯曲輪が張り付いている。二段目の曲輪からは北の矢田堀方面に伸びる尾根道が取り付いており、取り付き部付近には小堀切が設けられている。
三段目の曲輪の北側斜面には「長石」と呼ばれる凝灰岩の柱状節理の露頭があり、籠城時にこの場所で馬の背を米で洗い流し、城内の水の豊富さを見せつけたという「流米伝説」が残っている。
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三の丸から西に伸びる尾根上に東から馬場曲輪、馬場、物見台、馬場下、西矢倉台などの曲輪群が構成されている。東端は三の丸西の大堀切で区画され、西矢倉台西堀切に区画された全長約230メートルの細長い空間との間に、四条の堀切と一条の竪堀で尾根を分断し空間が設けられている。
堀切は西から東へと実城に近づくにつれて深さと幅が増し、最大の堀切である三の丸下の大堀切では、天端幅約19メートル、深さ約15メートルとなっている。この大堀切には底面に幅約1.8メートル、高さ約2メートルの石積みされた畝状土塁があることが特徴で、堀底の往来を分断する狙いがあった。
西矢倉台と呼ばれる曲輪は、西矢倉台下堀切と物見台下堀切に区画された比較的平坦な空間で、この曲輪の西端部に西矢倉台があり、南側に曲輪肩部から石積みされた壇状土塁が堀切に沿って伸びている。
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物見台下堀切と三の丸下大堀切とに区画された細長い空間は、大きく上下二段の帯曲輪状となっており、上段曲輪は馬場、下段曲輪は馬場下と呼ばれる。
馬場下は竪堀が楔のように食い込んでおり、中間部で東西に二分割されている。西矢倉台から馬場下に向かうと正面には馬場下西端の矢倉台があり、その脇が馬場下の西虎口となり、その手前に物見台下堀切が設けられている。この堀切は岩盤を掘り抜いた深さ約7メートルの堀切で、通路と法線をずらせて石積みの土橋が設けられており、これを渡らなければならない。
馬場下の西虎口を抜けると南側には腰石垣が竪堀まで約23メートル続いており、堀切手前で通路は竪堀の木橋を渡るルートと、堀底を下るルートとに分岐する。木橋ルートが城内連絡通路、堀底ルートが一般通路と考えられる。
木橋を渡った所には馬場下東の虎口があり、石積み基壇で絞り込まれている。通路は馬場下東曲輪を真っ直ぐ進むと行き止まりとなり、そこから斜めに上がっていくと上段面の馬場から西の物見台や東の馬場曲輪に至る。馬場下東曲輪の南端部には腰石垣ではなく柵列が巡らされている。
一方堀底ルートでは竪堀東側に虎口石積み基壇から三段構築された石垣が伸びており、この下を通らなければならない。
このように馬場下は東西の曲輪ともに通路に技巧を凝らした造りとなっている。
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馬場の西端、物見台下堀切の直上に物見台が位置する。平面形が台形に石積みされた基壇があり、物見矢倉が置かれた。ここからは北側の急峻な崖下に搦手道や長手谷が見え、遠くには北から西へ赤城山、子持山、小野子山、榛名山、浅間山、妙義山など上野の名山を眺望することができ、空が澄んでいれば群馬県庁や高崎観音の白衣観音も目にすることができる。
物見台基壇から馬場北側の肩に沿って約70メートルにおよぶ石塁が伸びており、付近から青銅製鉄砲玉や大筒玉が出土することから、この石塁は搦手道を意識した施設だったと考えられる。
馬場の中央付近には礎石建物跡があり、南側斜面に掘られた竪堀先端部の直上に位置していることから、竪堀に架かる木橋と竪堀の堀底道を監視する小屋だったと思われる。
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県道金山城址線を登りきった所が西城で、西端に食い違い土塁を持つ虎口がある。西側には堀切を伴っており、掘り残しの土橋を渡って曲輪に入る。
西城虎口から西へ約100メートルの所に見附出丸があり、尾根頂部から約12メートル下がった中腹に堀切を掘って西端を分断している。北にも尾根が伸び、ここにはクランク状の堀切と土塁が設けられている。
見附出丸の虎口は北西端にあり、通路は西から来ると堀切に突き当たり、これを北に巻いて曲輪の北側に回り込み、北西端の北虎口に取り付く形となる。この北虎口の東側には堀切と土塁の折れがあり、横矢掛けが可能になっている。
虎口部分の土塁には石積みが残り、また土塁は虎口から堀切に沿って曲輪先端部を囲うように南東にも伸びている。その外側には岩盤をくり抜いて横堀が設けられ、この横堀は掘り残しを土橋とし、その以東を食い違いに掘ることで南虎口を形成している。
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実城域の南には谷を挟んで標高184メートルの大八王子山、標高179メートルの小八王子山が鍵の手状に連なり、中央の中八王子山を中心に遺構が残っている。これらの遺構は太田口(新田口)、熊野口、富士山口の防御ラインとなっており、特に中八王子山から大八王子山への尾根に築かれた延長約200メートルの横堀が特徴的で、三ヶ所に土橋を設けた畝状遺構となっている。
またこの横堀は大八王子山から実城へつながる尾根上に築かれた石塁とともに、金山城の外郭ラインを形成する遺構でもある。
大手口は「新田口」またが「太田口」とも呼ばれ、中八王子山から東山へ連なる尾根と西山に挟まれた谷地形となっている。
日ノ池を水源とする枸橘沢が南流しているこの谷は大手谷とも呼ばれ、『永禄日記』に記される「呑嶺御屋形」(由良成繁の館)や、「御入」(成繁の子国繁の館)、根小屋や太田の「町」または「市」があったと考えられている。
麓には史跡金山城ガイダンス施設があり、金山城の理解を深める展示を体感することができる。
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【歴史】
金山城の築城時期については、建武3年(1336年)の佐野安房守一王丸軍忠状に「新田城を攻め落とす」とある「新田城」を金山に築かれた城であるという考え方もあるが、現在までの発掘調査では14世紀の以降の存在は確認できず、そのため『松陰私語』の「金山城事始」にある記録をもって築城年としている。
享徳の乱末期に、新田氏の後裔岩松家純(礼部家)が岩松持国(京兆家)を滅ぼして岩松両家の統一を図り、新田氏本領(新田荘)の継承者として金山に築城した。縄張は重臣の横瀬国繁、長楽寺の僧である松陰西堂らによるという。
『松陰私語』によれば、文明元年(1469年)2月25日に「地鎮之儀」を行い、七十余日の普請により大方が完成し、8月の吉日には「祝言」を行っている。この祝儀は城の完成だけでなく、礼部家・京兆家両派の統一と結束を固めるものでもあった。上座中央に「屋形」家純が座り、左右には岩松流(京兆家)と新田流(礼部家)両派が座ったという。
当時家純は室町幕府将軍足利義教の命により古河公方足利成氏討伐軍として関東に下向し、関東管領上杉房顕の本拠であった利根川右岸の五十子の陣に長期滞在しており、ここから祝儀に出向いている。
この頃の古河公方方と関東管領方との攻防は利根川を境に展開されていた。
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文明8年(1476年)、長尾景春の乱によって五十子の陣が崩壊すると、翌9年(1477年)1月に家純は子の明純と孫の尚純を伴って金山城に帰城した。6月には古河公方足利成氏に合力し、7月には金山城に全ての家臣を集め、上天下界の神々や八幡大菩薩の前で一味同心を図るため「御神水」の誓いを行っている。
この時古河公方以外への合力を禁ずること、横瀬国繁を「代官」とすることなど「御神水の旨三箇条」を定め、軍事・支配体制の一元化と強化を図った。なお上杉方へ復帰の誘いを受けていた明純・尚純は御神水の儀に参加しなかったため家純に勘当され、[[鉢形城]]に身を寄せることになる。
やがて尚純は古河公方成氏の裁可を得て許され金山城に戻り、城主家純の「名代」としての地位を与えられたが実権はなく、明応4年(1495年)に横瀬国繁の子成繁を除こうとして金山の東側の金井に陣を張り、妻方の佐野小太郎、また反横瀬派家臣と謀って金山城を攻撃した。
尚純方は「中城」まで攻め込むが金山城全体の制圧には失敗し、佐野荘へ隠居した。これを明応の乱(屋裏の錯乱)という。
尚純の跡を継いだ昌純も形骸化した城主に飽き足らず、横瀬成繁の孫にあたる泰繁の暗殺を謀るが、事前に発覚し殺されてしまう。これを享禄の変という。
これ以降横瀬氏は反横瀬氏や岩松家臣も取り込み、実質的な城主の地位を強めていった。
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明応6年(1497年)に古河公方足利成氏が没すると、古河公方家は内部分裂を起こし弱体化した。関東管領上杉憲政も天文14年(1545年)に[[川越城]]の戦いで北条氏に大敗し、[[平井城]]に退去したが、天文21年(1552年)に長尾景虎を頼って越後に逃れると、北条氏の上野への侵攻は本格化し、上野の勢力図は大きく変わることになる。
永禄3年(1560年)、上杉憲政から名跡と関東管領職を譲られた上杉政虎は古河公方に足利藤氏を擁立し、関東管領として公儀を名目に関東平定に乗り出した。この時、横瀬泰繁の子である成繁は金山城主の岩松守純を追放して自ら城主となっており、上杉方として参陣して「関東幕注文」に新田衆としてその筆頭で名を連ねた。
永禄6年(1563年)、成繁は信濃守に任じられ、長楽寺の「旦那」と称されるようになる。永禄8年(1565年)にはその子国繁が将軍足利義輝から御供衆に加えられ、刑部大輔の任官を受けた。これを機に横瀬氏は新田氏の故地にちなみ「由良」と改姓し、戦国大名としての地位を固めていった。
元亀元年(1570年)5月に越相同盟完成するが、その交渉期間は約2年半におよび、越後の上杉氏と相模の北条氏との実務的な交渉は由良成繁がつなぎ役となり、双方の直接交渉の場として金山城が用いられた。
しかし翌2年(1571年)に北条氏康が死去すると越相同盟はあえなく崩壊して北条氏と武田氏との甲相同盟が成立し、上野は上杉氏との抗争の場に戻ることとなる。
上野は越後府中―沼田―厩橋という北からのラインを構築した上杉氏と、小田原―八王子―寄居・栗橋―古河という南・東からのラインを構築した北条氏、さらにその隙間を西から武田氏が侵攻するという三つ巴の構図となり、三氏の勢力範囲の伸張と後退が繰り返された。
そのなかで金山城の由良氏は情勢の変化を巧みに読み、その都度上杉氏、北条氏と同盟することによって領国の存立と勢力拡大を図っていった。
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しかし天正12年(1584年)正月、由良成繁の子国繁と[[館林城]]主の長尾顕長は北条氏に拘束され、下野進出の拠点として金山・館林両城の借用を迫られた。これを本領の没収と解釈した国繁は、母の妙印尼を中心に結束し籠城を決意した。
6月には金山城攻めの主力である北条氏邦が攻め落とした[[反町城]]を拠点に、金山城の搦手にあたる長手口から攻め上がろうとし、一方北条氏照は南東の熊野口から攻めようとしたが、いずれも撃退され膠着状態となった。
以降も由良方はよく守っていたが、年末頃には国繁と顕長の帰還と本拠地の譲渡を条件に和睦となり、金山城は北条氏に明け渡され、国繁は[[桐生城]]に退いた。
翌年11月には金山城に在番衆が置かれ、北曲輪に宇津木下総守氏久、根曲輪に太井豊前、西城に高山遠江守定重が在城した。
天正15年(1587年)8月には清水太郎左衛門尉正次が城主に命じられ、城普請の総指揮を取って防備を固めた。
しかし北条氏時代は長くは続かず、天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原征伐によって滅亡し、金山城は5年余りで豊臣方の前田利家に接収され、廃城となった。
金山城は標高239メートルの金山山頂に築かれた実城を中心に、そこから樹根状に広がる尾根や谷などを巧みに取り込み、曲輪や堀切を設けた。
石垣や石敷きを多用しているのは特筆され、[[石垣山城]]以前の戦国時代の関東の山城に、本格的な石垣はないとされた定説が覆された。

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|所在地|群馬県太田市金山町|
|現存状態|曲輪、空堀、堀切、土塁、石垣、井戸など|
|城郭構造|連郭式山城|

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