金山城 のバックアップ(No.1)
現実の城情報金山城は日本100名城、関東七名城の一つで、新田金山城、太田金山城とも呼ばれる。 【城郭構造】 金山山頂部に築かれているのは実城を中心とする中核的な曲輪群で、枸橘沢(大手谷)の谷頭を土塁でせき止め、日ノ池を設け、実城、二の丸、三の丸、御台所曲輪、南曲輪が日ノ池を中心にコの字型に配置されている。 大手虎口は谷地形の底の部分に造られており、最も低い面に大手通路が通っている。通路の北側には下段・上段・三の丸、南側には下段・上段・南曲輪と、両側ともに三段の曲輪が大手通路を見下ろすように配置され、厳重な構えとなっている。 金山山頂から南西に伸びる谷の谷頭には日ノ池と呼ばれる池があり、標高215メートルにあるにもかかわらず、冬でも水が涸れることはない。9世紀後半の平安時代には水に関わる民間信仰がある聖なる池でもあった。土製の馬形(土馬)が出土していることから、雨乞い信仰であったと考えられる。 実城の北尾根・観音山には北城があり、『松陰私語』の「中城」、『永禄日記』の「坂中」と考えられ、また宇津木下総守が在番となった北曲輪にあたる。 三の丸から西に伸びる尾根上に東から馬場曲輪、馬場、物見台、馬場下、西矢倉台などの曲輪群が構成されている。東端は三の丸西の大堀切で区画され、西矢倉台西堀切に区画された全長約230メートルの細長い空間との間に、四条の堀切と一条の竪堀で尾根を分断し空間が設けられている。 物見台下堀切と三の丸下大堀切とに区画された細長い空間は、大きく上下二段の帯曲輪状となっており、上段曲輪は馬場、下段曲輪は馬場下と呼ばれる。 馬場の西端、物見台下堀切の直上に物見台が位置する。平面形が台形に石積みされた基壇があり、物見矢倉が置かれた。ここからは北側の急峻な崖下に搦手道や長手谷が見え、遠くには北から西へ赤城山、子持山、小野子山、榛名山、浅間山、妙義山など上野の名山を眺望することができ、空が澄んでいれば群馬県庁や高崎観音の白衣観音も目にすることができる。 県道金山城址線を登りきった所が西城で、西端に食い違い土塁を持つ虎口がある。西側には堀切を伴っており、掘り残しの土橋を渡って曲輪に入る。 実城域の南には谷を挟んで標高184メートルの大八王子山、標高179メートルの小八王子山が鍵の手状に連なり、中央の中八王子山を中心に遺構が残っている。これらの遺構は太田口(新田口)、熊野口、富士山口の防御ラインとなっており、特に中八王子山から大八王子山への尾根に築かれた延長約200メートルの横堀が特徴的で、三ヶ所に土橋を設けた畝状遺構となっている。 【歴史】 文明8年(1476年)、長尾景春の乱によって五十子の陣が崩壊すると、翌9年(1477年)1月に家純は子の明純と孫の尚純を伴って金山城に帰城した。6月には古河公方足利成氏に合力し、7月には金山城に全ての家臣を集め、上天下界の神々や八幡大菩薩の前で一味同心を図るため「御神水」の誓いを行っている。 明応6年(1497年)に古河公方足利成氏が没すると、古河公方家は内部分裂を起こし弱体化した。関東管領上杉憲政も天文14年(1545年)に川越城の戦いで北条氏に大敗し、平井城に退去したが、天文21年(1552年)に長尾景虎を頼って越後に逃れると、北条氏の上野への侵攻は本格化し、上野の勢力図は大きく変わることになる。 しかし天正12年(1584年)正月、由良成繁の子国繁と館林城主の長尾顕長は北条氏に拘束され、下野進出の拠点として金山・館林両城の借用を迫られた。これを本領の没収と解釈した国繁は、母の妙印尼を中心に結束し籠城を決意した。
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