郡山城 のバックアップ差分(No.1)

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*現実の城情報 [#information]
【城郭構造】
郡山城は秋篠川と富雄川の中間に突き出た、南北に長い西ノ京丘陵の南端に築かれた。
その内部は内堀で巧みに区画され、機能的に曲輪が配置されている。さらにその外側には家臣団の居住地や城下町からなる外郭が取り囲んでいる。
城郭の主要部分は丘陵上に置かれ、城下町は南東の低地部分に広がり、奈良方面に向かう街道を領域内に取り込んでおり、交通の要衝に市場を開く形となっている。
つまり郡山城は山城と平城の両方の特徴を上手く活かした構造だった。
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本丸(天守曲輪)は北側に折れが設けられ、その北端に天守台が置かれた。天守台の南には天守への進入路となる小天守台が設けられている。
本丸の東には堀を隔てて毘沙門曲輪があり、北に常磐曲輪(法印曲輪)・玄武曲輪と続く。
毘沙門曲輪と本丸は平時には極楽橋という木橋でつながっており、本丸には白沢門が設けられた。
また敵が毘沙門曲輪に侵入しようとする際に虎口となる追手門は城郭中枢部への正面玄関にあたり、門を出て東側には陣甫曲輪が南北に細長く伸びていた。ここは本来、建物がない空間で馬出としての機能を有していた。
本丸の西には堀を隔てて南に緑曲輪、北に厩曲輪があり、このうち厩曲輪は玄武曲輪とは陸続きになっている。
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本丸の南には堀を隔てて二の丸があり、近世にはここに藩主の屋敷があった。
本丸とは竹林橋と呼ばれる木橋でつながっており、天守側に竹林門が設けられていた。
二の丸は緑曲輪と陸続きであり、南側には本来は溜池だった鷺池を堀として利用している。
毘沙門曲輪は最古の城絵図である『正保城絵図』では「二之丸」と記されている。また緑曲輪と厩曲輪がかつて「新宅曲輪」と呼ばれていたことを考えると、郡山城における二の丸とは、本来は現在二の丸と呼ばれている部分も含めこれら陸続きの曲輪全体を指すものであったと考えられている。
つまり本丸の四方を取り囲むように曲輪が配置されていたのである。
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緑曲輪の西には、堀(松蔭池)を隔てて麒麟曲輪がある。ただしこの名称は柳沢氏以降の呼称で、『正保城絵図』ではここは「侍町」と記されている。
また貞享2年(1685年)の『和州郡山城図』では、この曲輪は「三の丸」と記されている。なお麒麟曲輪から緑曲輪・二の丸に至る虎口には松蔭門が設けられていた。
一方、現在三の丸と呼ばれる部分は、陣甫曲輪から堀を隔てて東側の空間にあたる。
ここには「五軒屋敷」と呼ばれる大型の居館群が南北に並立しており、最も北が「会所」と呼ばれる藩の評定所で、他は重臣の居住地だった。屋敷の裏手にも堀が巡らされており、東側の城下町とは隔絶していた。
また城下町から三の丸に入る虎口には柳門があり、東に隣接した頬当門との間に枡形を構成していた。一方、三の丸から二の丸に至る虎口には鉄門が設けられていた。
なお、麒麟曲輪が「三の丸」と呼ばれていた点を重視すると、郡山城における三の丸は本来は二の丸の東西に設けられた重臣の居住区だったとも考えられる。
つまり郡山城は、主郭を二の丸が取り囲み、その左右両脇に三の丸を配置した構造だった。
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郡山城の城下町は、城の南東部に長方形の街区が形成されており、整然とした町割が見られる。また城の北から南まで、城を取り囲むように家臣団の屋敷が配置されていた。
つまり城の中核部は城下町や家臣団居住区に取り囲まれる形となっている。
こうした外郭部も中核部と同じく堀で囲まれていた。また外部から外郭部へ至る虎口は全部で八ヶ所あり、このうち城下町の入り口にあたる鍛冶町・高田町・九条町・柳町にはそれぞれ大門が設けられていた。
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【歴史】
天正8年(1580年)、織田信長によって大和国では郡山城以外の城は破却を命じられた。
近世郡山城の初代城主である筒井順慶は[[筒井城]]から郡山城に居を移し、ここを新たな大和支配の拠点とするため、天守の造営も含めた大掛かりな築城が実施された。これが近世郡山城の始まりとなる。
ついで天正13年(1585年)、豊臣秀吉の弟秀長が入城したことにより、郡山城は[[大坂城]]に次ぐ大規模な城郭に改修され、この時に現在見られる城や城下町の基本的な骨格ができた。
さらに秀長の後に城主となった増田長盛は、城や城下町を取り囲む外堀を掘削し、郡山城は城下町全体が堀で囲まれる総構えの構造になった。
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慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの後、長盛は西軍に与したため改易となり郡山城は一時的に廃城となった。
その後郡山城には筒井定慶が入り、大坂の陣の際には豊臣方の要請を断って徳川方についたが、そのために郡山城は豊臣方に攻められ、定慶は城を放棄して逃亡した。
元和元年(1615年)には水野勝成が入城し、大坂の陣で荒廃した石垣や堀を修築し、同年に郡山城に入った松平忠明も修復に尽力し近世郡山城の姿が整った。
享保9年(1724年)には甲府から柳沢吉里が入城し、以後幕末まで柳沢氏15万石の居城となった。

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|所在地|奈良県郡山市城内町|
|現存状態|曲輪、堀、石垣など|
|城郭構造|輪郭式平山城|

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