越後本庄城 のバックアップの現在との差分(No.3)

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*現実の城情報 [#information]

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上杉謙信配下の猛将として知られる本庄繁長の居城。本庄氏は鎌倉時代から代々この地を領した揚北衆の一つで独立意識が高く、度々越後守護上杉氏や守護代長尾氏に対抗し、本庄城もその都度戦場となった。
永正の乱では時長が守護代長尾為景に叛いて、天文の乱では房長が伊達氏・中条氏に攻められて落城した。その後本庄城は小河氏が乗っ取っていたが、天文20年(1551年)に房長の子繁長が小河長資を切腹に追い込み城主に返り咲いた。
永正の乱では時長が守護代長尾為景に叛き、天文の乱では房長が伊達氏・[[中条氏>鳥坂城]]・[[鮎川氏>大葉沢城]]などに攻められ落城した。その後本庄城は小河氏が乗っ取っていたが、天文20年(1551年)に房長の子繁長が小河長資を切腹に追い込み城主に返り咲いた。
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本庄城の姿は「越後国瀬波郡絵図」に描かれている。山頂に天守は無く、主郭は切岸や岩が壁となっており、御殿のような平屋も見える。山麓には城主の屋敷が描かれ、城下町の周囲は木柵で囲まれ惣構えがあったとも考えられる。山頂と山麓は二本の道で結ばれ、城は全体として石垣は無く塀や木柵で防御されている。
戦国期当時に描かれた絵図は極めて少ないため、本庄城は当時の城郭の姿を知る貴重な資料となっている。
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本庄城に復帰した繁長は川中島の戦いで活躍するなど武功を挙げるが、永禄11年(1568年)に武田信玄と通じ上杉謙信に叛いた。猛将繁長が籠もり、四方を日本海・三面川・瀬波丘陵・湿地帯に囲まれた天然の要害である本庄城は容易には落ちず、翌年になって伊達氏や蘆名氏の仲介で和議が結ばれ繁長は帰参を許された。
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その後繁長は天正6年(1578年)の御館の乱では上杉景勝に味方し、同じ揚北衆の新発田重家が起こした乱でも景勝方について戦った。天正16年(1588年)には庄内地方へと侵攻し、[[大宝寺城]]を落として庄内を制圧した。
その後繁長は天正6年(1578年)の御館の乱では上杉景勝に味方し、同じ揚北衆の[[新発田重家>新発田城]]が起こした乱でも景勝方について戦った。天正16年(1588年)には庄内地方へと侵攻し、[[大宝寺城]]を落として庄内を制圧した。
しかしこれは豊臣秀吉の惣無事令に触れるものであり、また庄内で起こった藤島一揆を扇動したとされ、天正18年(1590年)末に繁長は所領没収のうえ大和国に蟄居となった。
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後に繁長は許されて上杉家中に復帰し、景勝の会津転封の際にもこれに従い、関ヶ原の戦いでは[[福島城]]に城代として入って伊達政宗を撃退した。
繁長が去った本庄城には堀秀治の家臣の村上頼勝が入り、近世城郭として改修された。
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|所在地|新潟県村上市二之町|
|現存状態|曲輪、竪堀、土塁など|
|城郭構造|梯郭式平山城|

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