赤穴城 のバックアップの現在との差分(No.5)
現実の城情報赤穴城(あかなじょう)は島根県飯石郡飯南町(出雲国飯石郡)にあった山城で、尼子十旗の一つとしても数えられた。 赤穴城(あかなじょう)は島根県飯石郡飯南町(出雲国飯石郡)にあった山城で、尼子十旗の一つとしても数えられた。 武名ヶ平山から飯南町中心部に向かって西に伸びる尾根の先端の頂上付近にある石垣で固められた南北2つの郭と、尾根筋に沿って広がる堀切を交えた小郭群で構成されている。 主郭が石垣で固められているのは堀尾氏の時代に手が入った証左とされ、一方で小郭群は戦国期の姿をとどめていると考えられている。 赤穴荘は元々は紀氏の荘園であったというが、南北朝期に三善清行の子孫という石見国佐波荘の国人佐波実連の次男佐波常連が地頭となり、その拠点として永和3年(1377年)に赤穴城を築いたとされている。 続きをクリックで表示 実連の子孫は後に赤穴氏を名乗るようになり、本家である佐波氏とともに室町期には統治の後ろ盾として主に出雲守護京極氏に従っていた。 関ヶ原の戦いによって毛利氏の所領が長門周防2カ国となると、出雲には堀尾吉晴が入り赤穴城にはその家臣松田吉久が入り拡張が行われたというが、元和元年(1615年)の一国一城令によって廃城となり、のちに島原の乱に際して再度破壊が行われたともいう。 関ヶ原の戦いによって毛利氏の所領が長門周防2カ国となると、出雲には堀尾吉晴が入り赤穴城にはその家臣松田吉久が入り拡張が行われたというが、元和元年(1615年)の一国一城令によって廃城となり、のちに島原の乱(正確には島原・天草一揆)に際して再度破壊が行われたともいう。 現在の城跡は、堀尾氏時代とされる主郭一帯の石垣が残っている他、山麓に向かって伸びる堀切を交えた小郭群も確認可能であるという。
赤穴盛清の義赤穴盛清の義(クリックで表示) コメント |
Published by (C)DMMゲームズ
最新の10件を表示しています。 コメントページを参照 画像を非表示