赤穴城 のバックアップソース(No.5)
*現実の城情報 [#information]

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赤穴城(あかなじょう)は島根県飯石郡飯南町(出雲国飯石郡)にあった山城で、尼子十旗の一つとしても数えられた。
武名ヶ平山から飯南町中心部に向かって西に伸びる尾根の先端の頂上付近にある石垣で固められた南北2つの郭と、尾根筋に沿って広がる堀切を交えた小郭群で構成されている。
主郭が石垣で固められているのは堀尾氏の時代に手が入った証左とされ、一方で小郭群は戦国期の姿をとどめていると考えられている。
赤穴荘は元々は紀氏の荘園であったというが、南北朝期に三善清行の子孫という石見国佐波荘の国人佐波実連の次男佐波常連が地頭となり、その拠点として永和3年(1377年)に赤穴城を築いたとされている。
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実連の子孫は後に赤穴氏を名乗るようになり、本家である佐波氏とともに室町期には統治の後ろ盾として主に出雲守護京極氏に従っていた。
しかし、16世紀に入り、尼子経久が京極氏にとってかわり出雲西部までその勢力を伸ばすと、赤穴氏は尼子氏に臣従し、大内氏に従った本家佐波氏とは袂を分かつこととなった。
天文11年(1542年)に大内義隆が尼子氏討伐のために出雲出征を起こすと、石見国境にほど近い赤穴城は最初の攻撃対象として大内勢に包囲され、時の当主赤穴光清は奮戦したものの討ち死にし、赤穴氏も一旦大内氏に降伏した。
しかし、[[月山富田城]]攻めが総崩れとなると、光清の三男盛清が祖父久清とともに尼子氏に帰参し赤穴城主となり、尼子氏も石見・備後と接する赤穴荘の重要性と光清の忠誠の功から赤穴氏を重用した。
だが、永禄5年(1562年)に雲芸和議を利して石見東部を制圧した毛利氏が和議を破棄し出雲に侵攻すると、盛清は特に争うこともなく赤穴城あっさりと開城、降伏し、毛利氏の一角として尼子攻めに加わった。
その後は山陰を管轄した吉川氏の下に入り、尼子再興軍に加わることもなく毛利家臣として活動し、盛清の孫である元奇の代に中川と姓を改め、江戸期には長州藩士として続いた。
関ヶ原の戦いによって毛利氏の所領が長門周防2カ国となると、出雲には堀尾吉晴が入り赤穴城にはその家臣松田吉久が入り拡張が行われたというが、元和元年(1615年)の一国一城令によって廃城となり、のちに島原の乱に際して再度破壊が行われたともいう。
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現在の城跡は、堀尾氏時代とされる主郭一帯の石垣が残っている他、山麓に向かって伸びる堀切を交えた小郭群も確認可能であるという。
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|所在地|島根県飯石郡飯南町下赤名|
|現存状態|石垣、堀切|
|城郭構造|山城|

**赤穴盛清の義 [#r51262bc]
永禄5年(1562年)の毛利氏の侵攻において、開城を考える赤穴盛清に対し老臣森田左衛門などが毛利氏との決戦を主張し、盛清が開城すると、彼らは城を出て領内に散らばり各地で一揆を起こしたという。
このことについて盛清は毛利氏によって叱責を受けることとなったが、盛清は
「家名を保つために主君(尼子氏)を裏切った自分に非があることであり、彼ら(森田左右衞門ら)こそ真の忠臣である」
と答え、これを聞いた毛利元就は
「盛清も義者であるし、森田らも伯夷、叔斉のような忠義を厚くする者であるのだな」
と感嘆したという。その後を見る限り、盛清は特に咎めを受けることはなかったようである。

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