赤穂城 のバックアップ差分(No.1)

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*現実の城情報 [#information]

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「忠臣蔵」元禄赤穂事件の舞台の一つとして知られる赤穂藩の居城。
正保2年(1645年)に浅野長直が近藤正純に設計を命じ、慶安元年(1648年)から築城が開始され、寛文元年(1661年)に完成した。
正純は甲州流軍学者の祖である小幡景憲の弟子であり、長直もまた山鹿流兵法の祖である山鹿素行に学んでいた。
赤穂城は熊見川の河口に形成された平坦な三角州に立地したことから、地形上の制約をあまり受けることなく縄張を行うことができ、そのため赤穂城には軍学に基づいた仕掛けが随所に見られる。

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赤穂城の縄張の特徴は屏風折れの土塀や多角形の曲輪群で、本丸は星型に近い多角形で、二の丸と三の丸もまた多角形で要所要所に櫓や城門が配置された。
これらの曲輪はひたすらに折れと短い直線を連続させて直線部分を極力排除し、敵兵を側面攻撃するいわゆる横矢掛けに適した構造であり、軍学上で考えられる全ての種類の横矢掛けを縄張に反映させたかのような徹底ぶりとなっている。
二の丸はのちに山鹿素行が手を加え、外門の高麗門と内門の櫓門からなる枡形を形成し、また当時海岸に面していたのも特徴で、船着場や水手門など、海城に見られる設備もあった。
全体として見ると本丸と二の丸は輪郭式、二の丸と三の丸の関係は梯郭式になっており、[[五稜郭]]のような稜堡式城郭としての防御機構も備え、近世城郭史上非常に珍しい変形輪郭式の海岸平城となっている。
稜堡式城郭の概要については、[[四稜郭]]のページが詳しい。
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このように赤穂城は軍学者が近世軍学の研究成果を注ぎ込んだような城だったが、5万石という浅野家の石高に対して明らかに過剰な備えであり、赤穂藩は常に財政難に悩まされた。
浅野家は元禄14年(1701年)に浅野長矩(浅野内匠頭)が[[江戸城]]中で刃傷事件を起こして切腹及び改易を宣告された。
清水克行氏の『喧嘩両成敗の誕生』によれば、吉良上野介義央は最後まで手向(応戦)をしておらず「喧嘩」とみなせるかは疑わしい案件であったが、幕府の裁許は目付の多門重共などに批判され、後年には儒学者の浅見絅斎も喧嘩両成敗の法を採用すべきだったとしている。
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その後、一時永井直敬が入ったのち宝永3年(1706年)に森長直が入ってからは、森家12代の居城として明治維新まで存続した。
森家は浅野家よりも石高がさらに少ない2万石だったため、ますます財政難が赤穂藩を圧迫するようになった。
幕末には藩政をめぐって藩内が分裂したまま廃藩置県となり、赤穂城は明治6年(1873年)に廃城となった。
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なお、赤穂浪士たちが長矩の仇討ちと称して義央を討った赤穂事件は「忠臣蔵」としてよく知られているが、実際には義央は領地である三河国幡豆郡では名君として慕われていたという。
もっとも、義央は領地にはその生涯で一度しか訪れていない。
また仇討ちという大義名分を利用した赤穂浪士の再就職活動であったという説もあるなど、異論も多い。
赤穂事件は戸田家も関わりが深く、その動向については[[大垣城]]のページが詳しい。
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平成14年(2002年)には本丸庭園と二の丸庭園が国の名勝に指定され、発掘調査をもとに庭園遺構を活かした計画的な史跡整備事業が進められている。

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|所在地|兵庫県赤穂市加里屋|
|現存状態|石垣、堀など|
|城郭構造|変形輪郭式平城|
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