赤塚城 のバックアップの現在との差分(No.1)

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*現実の城情報 [#information]

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現在の板橋区赤塚、国道17号線新大宮バイパス西側の高台にあった。城址は都立赤塚公園の一部の赤塚城址公園として整備されている。
築城時期・築城者は確定していないが、付近は平安時代から豊島氏の勢力圏で、豊島氏の一族で鎌倉幕府御家人の赤塚氏が住んでいた。
その居城だった可能性もあるが定かではない。源頼朝が挙兵後に立ち寄った伝承があり、頼朝に助力した豊島一族が築いた可能性はある。
入間川((室町時代には荒川はここには流れていない))沿いの平地を見下ろす岬状になった高台という地形からも、古くから要害として利用されていたと思われる。
城の北側、現在の笹目橋のあたりに「早瀬の渡し」と呼ばれる鎌倉古街道の渡し場があり、これを抑える位置に城があったのは必然に近い。

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鎌倉幕府が倒されると、赤塚郷は足利尊氏の弟直義から正室渋川頼子、その姪の渋川幸子と伝わり、さらに京都の鹿王院に寄進される。
享徳の乱の影響で千葉氏で内紛が起きると嫡流の千葉実胤・自胤が扇谷家に保護され、康正2年(1456年)頃に自胤が赤塚城主になった。
自胤は寛正3年(1462年)に隠棲した兄・実胤に代わって[[石浜城]]主となり、その後赤塚城には千葉家の一族が入ったとされる。
この時期には豊島(赤塚)氏は赤塚付近を手放していたか、又は千葉氏が豊島氏と同族((秩父氏を祖とする良文流平氏))であることから領地を譲ら(さ)れた事も考えられる。
それも遠因になったのか、豊島氏は長尾景春の乱に同調して挙兵し、扇谷上杉家の太田道灌に撃破され没落することになる。
このときの江古田原・沼袋の戦いに武蔵千葉氏も道灌方で参戦していた事がわかっており、また赤塚氏は豊島氏方に名前が見える。
やがて北条家が武蔵に進出してくると、武蔵千葉氏は太田氏同様北条方に転じてその配下に入った。
赤塚城は北条家時代も武蔵千葉氏の拠点となったが、天正18年(1590年)の小田原城開城ののち廃城になった。
千葉兄弟が赤塚城主になるにあたって鹿王院が反発して返上を迫ったが、堀越公方の執事渋川義鏡((渋川幸子の弟の玄孫にあたる))の取り成しで落着した。
また千葉氏が入るまでの間、武蔵平一揆の乱の余波から復権した豊島氏が赤塚領を押領(実力で実効支配)していた可能性も指摘される。
その場合、渋川義鏡の意を受けた関東管領山内上杉家からの命令によって赤塚を手放さざるを得なくなったことが考えられる。
それも遠因になったのか、豊島氏は長尾景春の乱に同調して挙兵し、扇谷上杉家の太田道灌に撃破され没落した。
このときの江古田原・沼袋の戦いには千葉自胤が道灌方で参戦しており、また豊島氏方には一族衆と思われる赤塚将監の名前が見える。
やがて北条家が武蔵に進出してくると、武蔵千葉氏は江戸太田氏同様北条方に転じてその配下に入った。
赤塚城は北条家時代も武蔵千葉氏の所領経営の拠点となったが、天正18年(1590年)の小田原攻めののち廃城になった。

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本丸が最も北に位置し、南に二の丸・三の丸が続く構成になっていた。それぞれの郭の間には空堀が掘られ、本丸跡には土塁が残存する。
本丸跡の下にある板橋区郷土資料館と赤塚溜池公園のあたりは城の外濠の遺構とされる他、南側の乗蓮寺付近も出城だったと伝わる。
国道17号線を挟んで東側の台地上にも沖山塁と呼ばれる支城砦の後が見つかり、その更に東側に徳丸館跡が出土している。
更にその線上に支城のひとつ[[志村城]]があり、このように川沿いの低地と武蔵野台地の間の崖線に沿って支城が連なっていた。

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|所在地|東京都板橋区赤塚|
|現存状態|堀跡、土塁|
|城郭構造|平山城(崖端城)|


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