衣笠城 のバックアップ差分(No.1)

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*現実の城情報 [#information]

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桓武平氏の流れをくむ坂東八平氏の一つ、相模第一の名門である三浦氏の本拠地。
三浦氏は村岡為通が前九年の役での功により源頼義から相模三浦郷を与えられ、三浦為通を名乗ったのが始まりとされるが詳細は不明。
衣笠城は康平5年(1062年)に為通が所領の中心に位置する衣笠山に築き、以後為継・義継・義明の4代に渡る居城となり、三浦半島支配の中心地となった。
治承4年(1180年)、義明は伊豆で平氏打倒の兵を挙げた源頼朝に呼応したが、平氏方の畠山重忠に衣笠城を攻められて落城し(衣笠城合戦)、義明は一族を逃したのちに討死した。
衣笠城から逃れた三浦氏一族は安房で頼朝と合流し、その後は平氏追討に功を挙げ、鎌倉幕府が成立すると再び衣笠城を本拠地とした。

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三浦氏は義明の跡を継いだ義澄が頼朝の宿老となり、また一族の和田義盛は幕府創業の功臣の一人として初代侍所別当に任じられている。
頼朝の死後は義澄・義盛が、ともに有力御家人による「十三人の合議制」の一員となるなど、三浦氏一族は鎌倉幕府において絶大な権勢を誇った。
しかし執権として幕府の実権を握りつつあった北条氏は他の御家人の排斥を進め、建暦3年(1213年)の和田合戦で義盛が討たれ、和田氏は没落した。
この時上野に逃れた一族が上野和田氏を興し、[[和田城]]を築いたとされる。
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一方三浦氏の宗家は義澄の跡を義村が継ぎ、評定衆の宿老となるなど権勢を保ち、幕府において北条氏に次ぐ地位を占めていた。
義村の子・泰村とその弟・光村の代では、将軍との結びつきが強まり北条氏を凌ぐほどの権勢を誇るようになったが、三浦氏に反発する安達景盛の策謀によって執権北条時頼との対立が激化し、宝治元年(1247年)の宝治合戦に敗れて三浦氏宗家は滅亡、衣笠城は廃城となった。
のちに三浦氏は庶流の佐原盛時によって再興され、相模三浦氏として[[三崎城]]を本拠地に戦国大名として発展した。
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衣笠城は大谷戸川と深山川に挟まれた半島状の丘陵一体に築かれ、2つの川を天然の堀とし、要害地形を利用した平安時代後期から鎌倉時代前期を代表する山城とされる。
一方で齋藤慎一氏は向井一雄氏との共著である『日本城郭史』で、『吾妻鏡』には衣笠城と明示されているものの山城であるとは読めず、また現地では山城を語る遺構が見出だせないことから、衣笠城が山城であったことに疑問を呈している。
齋藤氏によると衣笠山の東山麓、北側斜面に満昌寺・近殿神社・薬王寺が並ぶ大矢部に三浦氏の屋敷があったとされ、『吾妻鏡』に記された「東木戸口大手」「西木戸」は谷地形を踏まえたものと推察し、またその西側の南側斜面には清雲寺・円通寺があり、さらに経塚があった衣笠山は霊地であったとしている。
そしてこのような配置は屋敷の西方に極楽浄土、南方に現世利益を願う場があり、西の谷奥には聖地がある鎌倉武士の本拠のモデルに合致しているという。

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|所在地|神奈川県横須賀市衣笠町|
|現存状態|井戸、堀など|
|城郭構造|山城|

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