虎御前山城 のバックアップの現在との差分(No.1)

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*現実の城情報 [#information]

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織田信長によって、元亀3年(1572年)に浅井長政の[[小谷城]]を包囲すべく標高約230メートルの虎御前山に築かれた陣城。
織田信長によって、元亀3年(1572年)に浅井長政の[[小谷城]]を包囲すべく標高約230メートルの虎御前山(とらごぜやま) に築かれた陣城。
木下秀吉(のちの豊臣秀吉)は城番に任命されると同時に近江横山城には城代として入っている。
信長、秀吉だけではなく、柴田勝家、滝川一益、丹羽長秀といった織田家重臣の陣地跡も残っている。
虎御前山は古くは長尾山と言ったが、顔は人間で身体は蛇の子供を一度に15人も産んでしまい、嘆き悲しんだ末に自決した娘の名前が「虎姫」だったという伝説がこの地に残ることから改名された。
また、[[菩提山城]]主・竹中半兵衛が小谷城攻めの戦功により秀吉から下賜されたという虎御前の太刀もこの地に由来する。

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虎御前山は小谷城からわずか500メートルほどの近距離に位置し、四方に見通しがきく独立丘陵でもあった。
山の最高所には信長が陣を置いたと伝わる曲輪があり、四方は切岸で囲まれ、南側では竪堀や堀切で守りを固め、古墳群を活用して曲輪を設けるなど、陣城ではあるが巧みに構築された山城だった。
秀吉が陣を置いたとされる曲輪は小谷城に最も接近した場所で、秀吉が小谷城攻めの最前線に身を置いていたことがわかる。
小谷城への総攻撃の際にも、虎御前山城を出撃した秀吉は清水谷の最深部から小谷城の主郭部を強襲し、陥落に追い込んでいる。

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|所在地|滋賀県長浜市中野町|
|現存状態|曲輪、石垣、土塁、空堀、堀切|
|城郭構造|山城|
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