持統天皇8年(694年12月30日)、飛鳥浄御原宮から遷都された日本初の本格的な唐風都城であり、のちの平安京、平城京をも凌ぎ古代最大の都とされる。 岸俊男氏による説では畝傍山・天香具山・耳成山の大和三山に「囲まれていた」東西約2キロメートル、南北約3キロメートルの都だった。 しかし、平成8年(1996年)に橿原市の遺跡で西京極にあたる交差点が、同年に桜井市の遺跡で東京極を南北に通る大路が発見され、大和三山を「含む」東西約5.3キロメートル、南北約4.8キロメートルに広がる都であることが分かった。 和銅3年(710年)3月10日に平城京に遷都し、使用されていた期間は16年とわずかであったが、この発見により使用されなくなった理由は手狭になったからではないことも分かった。実際には衛生状態の悪化による疫病が原因と考えられる。
続きをクリックで表示
大宝律令が制定され、貨幣も発行されたのも藤原京時代であり、初めて「日本」という国号を使用したのも藤原京を発した遣唐使であった。 「藤原京」との名称は明治になってから喜田貞吉氏が提唱したものであり、『日本書紀』では「新益京(あらましのみやこ)」としている。 先述の通り使用期間は短いが、1代ごとの天皇ではなく、持統・文武・元明の3代の天皇が居住したのは初の事例である。 天皇や貴族中心の文化である白鳳文化もこの藤原京で華咲いたとされる。