葛西城 のバックアップ差分(No.3)
*現実の城情報 [#information] //編集前に[[テンプレート/城娘]]の「現実の城情報」をご確認ください。(このコメントは必ず残してください。他のコメントは不要なら削除していいです) //編集会議室で決まった基準に基づき、本文が長くなるようなら以下の方法で折り畳んでください。(目安は大体6行以上) //本文はなるべく、ほどほどのところで改行してください。改行は「。」のうしろで。 享徳の乱前後に、山内上杉方の軍事拠点として、青戸の地に築城された。 最初の葛西城の城主は、武蔵守護代大石氏の一族、大石石見守であった。 入場後、子孫は代々、石見守を称していた。 寛生3年(1462)から文明10年(1478)頃までの一時期は、上杉方の千葉実胤が入城したとも言われている。 その後は、再び大石氏が葛西城に入り、山内上杉氏の関東最南端の前線、葛西の守備にあたっていた。 #br #style(class=submenuheader){{{ &color(White,Maroon){続きをクリックで表示}; }}} #style(class=submenu){{{ 天文7年(1538)に北条氏綱が攻略した。 天文19年(1550)頃に、古河公方の御座が計画された。 天文21年(1552)頃から永禄元年(1558)頃まで、葛西城に御座していたことが明らかになっている。 永禄2年(1559)に作成された「小田原衆所領役帳」によると、江戸衆の遠山丹波守の一族、遠山弥九郎が在城していたことが確認されている。 永禄3年(1560)長尾景虎に率いられた反北条勢力により落城。 永禄5年(1562)4月24日、太田康資の指揮により、小田原北条方が再奪取。 永禄7年(1564)太田康資が里見方へ寝返ったことで、葛西城は最前線になる。第2次国府台合戦で小田原北条氏が里見氏を撃退して以降、軍事的緊張はなくなる。 天正期の資料によると、葛西周辺の兵力が葛西城に集結して各地へ派遣されている。そのことから、葛西城は前線基地ではなく、遠くに伸びた前線への補給基地として機能していたと考えられている。 天正18年(1590)4月29日頃、徳川家康の家臣、戸田忠次が攻め落とす。 国立公文書所蔵の「戸田家伝」によれば、周辺の小田原北条方の城が開場降伏する中、葛西城のみが降伏しなかったと記されている。 葛西城の跡に、将軍家の鷹狩用の御殿が建てられる。 葛西御殿、青戸御殿と呼ばれていた。 慶長10年(1605)徳川家康が10月に葛西で鷹狩を行った記事がある。11月には越谷などを訪れた後、青戸に2泊してから江戸へ帰ったと記録されている。 寛永16年(1639)と慶安2年(1649)の二度に渡って改修が施される。 3代将軍家光の頃になると、利用されることが少なくなった。 延宝6年(1678)10月29日に青戸古御殿の払い下げを知らせる、お触れが出ている。 }}} |BGCOLOR(#ddd):80|300|c |所在地|○○○| |現存状態|○○○| |城郭構造|○○○| *コメント [#comment] #pcomment(,reply,10,) |
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