葛尾城 のバックアップの現在との差分(No.3)

現実の城情報 Edit


武田信玄を二度にわたって破った北信濃の猛将、村上義清の居城。村上氏は鎌倉時代に村上郷で発祥した清和源氏の一族で、元中年間(1384~1392年)あるいは応仁年間(1467~1469年)に坂城郷に本拠を移し、葛尾城を居城としたとされる。

戦国時代の当主村上義清は村上氏の最盛期を築き、信濃に侵攻した武田信玄を上田原の戦い・「砥石崩れ」で撃退した。

しかし信玄の家臣真田幸隆が村上方の砥石城を奪取して以降、幸隆の調略で村上氏の勢力は減退し、天文22年(1553年)に義清は葛尾城を捨てて逃亡、その後一時奪還するものの再び武田方に奪われ、義清は上杉謙信を頼って越後に落ち延びた。

この葛尾城が陥落した天文22年(1553年)が葛尾城の文献上での初見であり、それ以前の葛尾城の詳細は不明となっている。

武田信玄を二度にわたって破った北信濃の猛将、村上義清の居城。村上氏は11世紀末に清和源氏頼信流の盛清が更級郡村上郷に配流され、その子の為国が村上姓を称したことに始まるとされる。

南北朝時代に中先代の乱では村上信貞が「信濃惣大将」として信濃の北条氏残党の討伐に転戦し、応永7年(1400年)には村上満信が信濃守護小笠原長秀と対立し、国人衆を率いて長秀を追放した大塔合戦が起こっている。

応仁2年(1468年)には坂城郷の諏訪社頭役を村上政清が負担したという記述があり、この頃には村上郷から坂城郷に本拠を移し葛尾城を居城としたとされる。

坂城の地は上田盆地と長野盆地との境に位置し、埴科郡の南端で小県郡、対岸で更級郡と接することから、古くから交通の要衝として知られる。

葛尾城は五里ヶ峰から伸びて千曲川の断崖となって落ち込む尾根上に築かれ、尾根筋に全長300メートル以上に渡って築かれた長大な山城だった。城域には尾根筋に沿って多数の曲輪や堀切が連続し、特に主郭の背後を守る堀切は巨大なもので、北側からの攻撃を遮断している。主郭から尾根を南へと進むと葛尾城の支城である姫城があり、その先端が千曲川に落ち込み断崖絶壁となっている。

所在地長野県埴科郡坂城町
所在地長野県埴科郡坂城町葛尾山
現存状態土塁、堀切など
城郭構造山城
城郭構造連郭式山城

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