神功皇后の時代に大旱魃があり大般若経により農作物の被害を受ける危機から救われたことから、大般若経の「若」と清水の源という意味の「江」を合わせ名付けられたとされる地に築かれた。 築城年は弘和2/永徳2年(1382年)で、築城主は畠山基国である。当初は守護所として政治機能のみを持ったが、楠木正成の子・正儀と細川頼之を警戒、若江鏡神社が祀る大伊迦槌火明大神を城の守り神として防御機能が備わった。 西を大和川本流、東を大和川支流玉串川に守られた天然の要害であったが、そのために度々洪水の被害も受けている。 御霊合戦(上御霊神社の戦い)で畠山政長と畠山義就が家督問題のため争うと応仁の乱が始まり、文明9年(1477年)には政長の家臣・遊佐長直が守っていたが、義就に攻められ落城した。 これにより義就は名目上の河内守護である政長から河内を奪い、その後の河内十七箇所の戦いで日本史上初の水攻めを行なったが、このとき若江城にも水害が及んだという。
続きをクリックで表示
事実上守護を失った河内はその後は土一揆や国一揆が頻発、さらに畠山家の内紛による混乱とともに若江城の守備も強化されていった。 三好長慶が河内を支配すると、天正元年(1573年)には長慶の子で反三好三人衆の三好義継が入っていたが、織田信長の命を受けた佐久間信盛の大軍により落城。 義継が妻子一族を自ら殺害し、自害したために三好宗家は滅亡し、若江城は信長が石山御坊(石山本願寺)との戦いに利用したともされるが、やがて廃城となった。
コメントはありません。 Comments/若江城?
コメントはありません。 Comments/若江城?