花隈城 のバックアップ差分(No.1)
*現実の城情報 [#information] //編集前に[[テンプレート/城娘]]の「現実の城情報」をご確認ください。(このコメントは必ず残してください。他のコメントは不要なら削除していいです) 花隈城(はなくまじょう)は兵庫県神戸市中央区(肥前国佐賀郡)にあった平山城。花熊城ともいう。 六甲山地から瀬戸内海に向けて伸びる丘陵を利用した平山城で、1年をかけて穴太衆に築かせたという石垣や天守を持つ本格的な大規模近世城郭であったとされる。 築城は織田信長の勢力が摂津に及んで以降とされており、和田惟政が摂津に入った永禄11年(1568年)や、本願寺との抗争が本格化した天正2年(1574年)などがあげられている。 一方、永禄10年(1567年)に荒木村重が織田信長の命で築いたという説があるが、この頃は織田信長の勢力が摂津に及んでおらず、これは疑問視されている。 いずれにせよ、天正期には荒木村重の[[有岡城]]の主要な支城の1つとなっていたことだけは間違いがないとされる。 #br #style(class=submenuheader){{{ &color(White,Maroon){続きをクリックで表示}; }}} #style(class=submenu){{{ 天正6年(1578年)荒木村重が織田信長に反旗を翻して有岡城に籠もると、村重の親戚であるという村木元重が城主であった花隈城もこれに同調し、翌年有岡城を脱出した荒木村重が最後に籠もった城となった。 村重らは花隈城で必死の抵抗を続けるも、池田恒興らの攻撃を支えきれず天正8年(1580年)落城、村重らは毛利領へと逃亡した。 この戦の功によって荒木村重の旧領を所領として与えられた池田恒興は花隈城には入らず、南に新たに兵庫城を築いたため、本格的な近世城郭としては短期間で廃城となってしまった。 一説では、兵庫城の建設資材として花隈城の一部が転用されたという。 #br 城跡は現在のJR元町駅西方、兵庫県庁の南方一帯にあたるが、周辺の開発により遺構は残されていない。 本丸跡地は福徳寺~花隈公園にかけてとされ、福徳寺には天守閣址の碑、花隈公園には城址碑が存在している。 また、花隈公園付近には模擬石垣や模擬天守台が存在するが、これは花隈城のそれを再現した物と呼べるものではない。 }}} |BGCOLOR(#ddd):100|200|c |所在地|兵庫県神戸市中央区花隈町| |現存状態|特になし| |城郭構造|平山城| *コメント [#comment] #pcomment(,reply,10,) |
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