花園城 のバックアップ差分(No.1)

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*現実の城情報 [#information] 

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武蔵七党の一つである猪俣党一族とされる藤田氏の居城。平安時代末期に猪俣政家の次男・政行が武蔵藤田郷を本拠として藤田氏を名乗り、居城を花園城としたとされるが、詳細は不明。
藤田氏は室町時代には関東管領山内上杉氏に従い、秩父郡で勢力を拡大していった。やがて[[小田原城]]を本拠とする後北条氏が台頭し、天文15年(1546年)に[[河越城]]の戦いで扇谷上杉氏が滅亡、山内上杉氏が没落すると、藤田氏は後北条氏に従属した。
この頃藤田氏は藤田重利(のちの康邦)が天神山城を築いて新たな居城としており、後北条氏から北条氏康の四男・氏邦を娘婿として迎えた。以後藤田氏の嫡流は氏邦が継ぎ、重利は用土氏を名乗って康邦と改名した。康邦の子孫のうち用土重連は氏邦に謀殺され、藤田信吉は武田勝頼や上杉景勝、徳川家康らに仕えている。
氏邦は氏邦は1560年代半ばに天神山城から[[鉢形城]]に移って新たな居城とした。花園城も氏邦の支配下で鉢形城の支城となったと考えられ、天正18年(1590年)の豊臣秀吉による小田原征伐で鉢形城が落城した際に花園城も同様に落城したとされるが、氏邦に家督を譲った康邦が隠居城とした説もある。

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花園城は藤田氏の菩提寺である善導寺背後の標高約200メートル、比高約90メートルの山に築かれ、北には山々が連なり、南には荒川が流れる。
山頂の尾根筋には岩盤をくり抜いた5つの堀切によって東西方向に4つの曲輪が設けられた。堀切はクランク状に配置され、上幅が5~7メートルにもなる大規模なもので、南側斜面にある竪堀と連結するものもある。
山頂から山裾まで続く竪堀は4つあり、なかには二重堀も見られ最大幅は16メートルにもなる。竪堀は複雑に折れ曲がって横堀につながり、その横堀はまた竪堀となって斜面に伸び、何度も折れ曲がり分岐を繰り返す複雑な構造となっている。
山頂部の曲輪から南方には幅1.5~2メートルの腰曲輪が階段状に置かれ、要所には石積が設けられ枡形を形成している。
城の南側、荒川左岸の段丘面には藤田氏の居館と伝わる藤田館跡があり、その東隣にも中世の館跡である箱石遺跡が見られ、居館と詰城の関係であったと考えられる。

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|所在地|埼玉県大里郡寄居町末野|
|現存状態|土塁、堀、石積など|
|城郭構造|山城|

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